アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2009年10月

富士山が見える散歩道

東京府中の私の散歩道は最高である。何しろ、近くに二つの都立公園と農工大の農場があり、何れも餓鬼時代の遊び場と来ているから、何処を通っても懐かしい思い出が残っているからだ。万歩計をポケットに、ウオークマンを聞きながら歩くから、将にウオークマンである。
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浅間山から81キロ先の富士山             右) 関東の富士見百景の一つ

家を出て美術館通りを行くと、左手に東京農工大の馬場と農場が現れる。農場を通り抜けて、府中の森公園を右手に見て直進すると、私にとって特に懐かしい、浅間山(せんげんやま)に到着する。
浅間山は低山のくせに堂々三つの峰を持っている。堂山、中山、前山である。最高峰は堂山で、79.3Mts.の山頂に小さな浅間神社がある。
餓鬼のころは、蛇がうじゃうじゃいたので我々は「蛇山いるぞう」と呼んでいた。山の南側には小さな池があって、春にはオタマジャクシが溢れていたものだが、今は明治大学野球部の島岡寮とグラウンドを二面持つ練習場になっている。
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上)さり気無く整備された道            きすげ橋を渡ると、自然のままの道
浅間山の麓を二周後、急坂を登って富士山が見えるスポットに着く。ここ数ヶ月、富士山が拝めたのはたったの二回きりである。府中は晴れていても、西の空はいつも雲が掛かっていて、富士は見えないのだ。
それが今週の火曜日、前日の雨が上がって、見事に富士山が姿を現してくれた。
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農工大馬術部の馬場                  右)農工大農場 

私が浅間山を気にいっているのは、道の一部が石畳で適度にデコボコしているため、天然の「青竹踏み」が出来るからだ。都立公園だが、自然を尊重して整備は控えめなのが良い。
きすげ橋を渡って、多摩墓地方面に行くと、くぬぎと笹が自生する、手付かずの武蔵野の森が健在である。府中市のスローガン通り、「ほっとするね、緑の府中」である。ボランティアの方々の奉仕で清掃、管理が行われているのが、素晴らしい。
山の北側には斎藤茂吉、茂多先生ゆかりの斎藤精神病院がある。昔は付近に人家は全く無く、遠くから見えた、林の中の病院が不気味だったことを良く覚えている。
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府中の森公園正面入口                 右)府中の森公園

浅間山から、府中の森公園まで戻り、これを二まわりした後、農工大を通って家に戻ると丁度12000歩、6Km.くらいになる。朝の授業前、農工大の馬場では馬術部員たちが乗馬の練習に余念がない。昔は軍隊帰りのおじさんのような学生が多かったが、今時の農学部は女子学生や留学生も多く、変われば変わったものである。

この散歩道のお陰で、私は体重を12キロも落とすことが出来た。序で血圧、コレステロール、尿酸等々、全ての数値が改善したのは勿論である。
毎朝、散歩する度に思うことは、「浦島太郎」の私が餓鬼時代の遊び場を散歩することが出来る幸せである。おまけに、この幸せは健康まで恵んでくれるのだから、勿体ない位である。
(終り)

カストロの妹はCIAのスパイだった

 キューバのカストロ兄弟の妹さんのフアニータは亡命先の米国フロリダ州マイアミで
回想録を出版した。その中で、彼女は衝撃的な告白をしている。
回想録を読むと、キューバの外界への扉はメキシコに向けて開いていることが分かる。
フアニータの長兄である、フィデルも雌伏時代、メキシコでタクシー運転手をしていた
ことがある。次の記事はメキシコの代表的な通信社である、Notimex電子版よる。
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フアニータ・カストロさん
キューバのカストロ兄弟の妹、フアニータ・カストロ、(正式名はJuana de la Caridad Castro Ruz) は1961年、メキシコ・シティーで米国のCIAにエージェント(訳注:スパイ)として採用された、と自身の懐想録「私の兄たち、フィデルとラウル、秘密の歴史」で明らかにした。
出版されたばかりの彼女の著作の中で、76才のフアニータはCIAは彼女の友人である、当時の駐キューバ、ブラジル大使夫人のヴィルフィニア・レイタン・デ・クーニャさんの仲介でCIAと接触した、と告白した。
エージェントになるに際し、フアニータは兄たちに危害を加えないことを採用の条件にした。
CIAの要員たちは、一度も私の兄たちを殺害するようなことは要求しなかったし、したとしても、絶対に引き受けるものですか、絶対に、絶対に、と強調した。兄弟どころか、どんな人でも殺すなど一度も要求されませんでした、と今週の月曜の夜、ユニヴィシオンTV(訳注:マイアミに本社があるスペイン語TV局)のインターヴューで語った。

フアニータがヴィルフィニアの仲介でCIAの要員と話し合ったのは、1961年4月、反革命勢力のコチーノス(豚)湾への侵攻が失敗した後だった。
その後、フアニータはCIA暗号名・ドナとしてキューバに留まり、兄たちの革命の反対勢力を三年に亘って、自宅に匿ったりしていた。

回想録によると、ヴァージニアはフアニータにメキシコシティーに住む実妹のエマに会いに行く、という口実で同市に飛び、CIAの採用担当の要員に会うようにと、持ち掛けた。
74才のエマは今に至るまで、フアニータのメキシコ・シティー訪問の眞の目的を知ることはなかった。
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次兄のラウル、現キューバ国家評議会議長

フアニータとエンリケと名乗ったが、本名はトニー・スフォルサと言う、CIA要員との最初の会合は、開業早々の豪華ホテル、カミノ・レアルのエンリケの部屋で行われた。1961年6月24日のことだった。
スフォルサはフランク・スティーブンスと言う偽名でカシノの客として、キューバに潜入したことがある、マングース作戦の中心人物だった。マングース作戦はコチーノス湾侵攻が失敗に終わった後、CIAが立てた戦略で、キューバ経済のかく乱を目的とするサボタージュ作戦とカストロ政権に対抗する軍事作戦等からなっていた。
カミノ・レアルでの会合後、フアニータに与えられた最初の任務は、メキシコからキューバに缶詰類を送ることだった。缶詰にはキューバに侵入していたCIAの要員宛の書類、現金、及び短波放送で受信する暗号による指令の解読表等だった。

回想録の中でドナである、フアニータは、1962年9月、メキシコからCIAにキューバ国内に装備されたソヴィエットの核ミサイルの存在を通知した、と明かしている。
一か月後、キューバのミサイルを巡って、カストロ抜きで、ジョン.F.ケネディーとソ連のフルシチョフとの間で、後にキューバ・ミサイル危機と呼ばれる激しい駆引きが行われた。

1963年、母親のリナさんの死後、フアニータは彼女を護ってくれていた母を欠いて、兄たちの監視に辛い思いをしていた。その頃、ラウルが彼女の家に、彼女の種々の反革命行動の証拠を持って訪ね、フィデルが大変立腹していると告げた。
そこで、1964年6月19日、フアニータはキューバを出て、妹エマが住むメキシコに行くことを決意した。ラウル・カストロはフアニータのキューバ出国許可を入手してくれた。
フアニータは本の中で、ラウルは常にフィデルとフアニータとの間を取りなしてくれ、彼女を援護してくれた、と書いている。

(終り

TOKYO CUBAN BOYS

見砂直照生誕100年 & 東京キューバンボーイズ結成60周年記念コンサート
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見砂直照生誕100年記念コンサート、プログラム

10月24日(土)雨の中、日比谷公会堂に見砂直照生誕100年記念コンサートを聴きに行ってきた。開場時間前、すでに多数の観客が詰め掛けていたことと、観客の大多数が年寄りだったことに驚く。
プログラムを見て、キューバン・ボーイズはレコード、CDを100以上発売していることを知った。レパートリーはキューバ音楽だけでは無く、メキシコ音楽にも及び、生前メキシコの我家でピアノの弾き語りをしてくれたことがある、コンスエロ・ヴェラスケス女史の歌が何曲も入っているのも、懐かしかった。
 と言うのも、私は学生時代から、昔NHKでラテン音楽の番組を担当していた、ホルへ・的場さんと親しくさせて頂いた縁で、ドン・ホルヘがメキシコを訪問する度に、メキシコの著名な音楽家を我家に連れて来て下さったのである。
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20人編成のT.C.B. 右写真: 友情出演した原信夫
 
コンサートは第一部「東京キューバンボーイズ誕生」、第二部「アレンジの競演」第三部「新しいキューバンの世界」から構成されていた。
20人編成のバンドはりゅうりゅうたる金管と本場以上の冴えを見せるパーカッションが特に印象に残った。
私はメキシコで何回もペレス・プラド楽団の生演奏を聴いたが、キューバンボーイズに文句なしに軍配を上げる。踊りながら産まれてくると言われる、ラテン民族に負けない、リズム感をメンバーの皆さんが持っているのも素晴らしいことだ。
 そうそう、昔、日本人のラテンバンドがメキシコの「Siempre en Domingo, 日曜日にはいつも」と言う、スペイン語TVの世界ネットワークで放映される人気番組に毎週出演していたことを思い出した。日本人のラテン音楽ミュージシャンは、本場で十分通用するのだ。
惜しむらくは、バンドの名前が英語であることだが、まあ、良いか。

では、コンサートで演奏された曲目をお知らせしよう。
第一部                            
東京キューバンボーイズ誕生       
1.Cubanakan             
2.Rumba Tamba           
3.La Paloma             
4.Besame mucho           
5.Mambo No.5
6.Que fantastica es Chachacha     
7.My shawl
8.Miami beach rumba             
9.Bolero medley (Te quiero dijiste , Quiereme mucho )
10.El mambo
11.真っ赤な太陽

第二部
アレンジの競演
12.城が島の雨   (編曲者:内藤法美)
13.Chivirico Mambo (編曲者:一の瀬義孝)
14.Gradada    (編曲者:福井利雄)
15.El manisero  (編曲者:植原ミチオ)
16.さくらさくら  (編曲者:前田憲男)
17.Cumana    (テディ・池谷)

第三部 
新しいキューバンの世界
18.Cuban Fantasy
19.Cresent
20.Un violin pa` Chano
21.Lo que me queda por vivir
22.Quando quando quando
23.Puerto padre
24.MISAGO (記念曲・作曲:前田憲男)

兎に角、懐かしい名曲が聴けた、楽しい夕べだった。願わくは、若いラテン音楽愛好者がもっともっと増えんことを。
 
(終り)

三点リーダー ...Puntos suspensivos Dr.Mario Melgar

マリオ・メルガール博士

記事はメキシコの日刊紙、Excelsior紙の同氏コラムより転載
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写真はマリオ・メルガール博士
 

No,We can`t

オバマはニュースの中心であり続けている。が、大統領選出前、実行を期待されていた種々の公約はポストに着いた今現在も、未だ実現の緒についていない。
オバマ政権は9ヶ月目を迎えたが、具体的な成果を挙げるに至っていない。ひょっとしたら、誰も受賞に相応しいと思っていない、早すぎるノーベル平和賞への指名が成果といえるかも知れない。
あのポーランドのワレサ氏はこのニュースを聞いて、「如何して、こんなに早く?」と叫んだそうだ。

医療制度改革は社会主義の始まり

オバマの重要な政策である、医療制度の改革は遅々として進まない。改革に強く反対する保守派はこの制度を米国に於ける社会主義の始まり、と見なしている。
実際、大都市郊外の典型的な中産階級が住む住宅の庭には「社会主義反対!」のプラカードが立っている。当然だが、反対派は社会主義が何かは勿論、オバマが提案する医療制度改革の内容についても知らないのだ。

もしオバマにメキシコ人の政治顧問が付いていたら、「舵取り叩き」即ち抵抗勢力の頭株排除を具申するだろう。
カルデナス(*1)がカイエス(*2)を追放したように、ルイス・コルティネス(*3)がアレマン(*4)政権の腐敗を糾弾したように、サリナス(*5)が石油公社組合のボスを逮捕したように、カルデロン(*6)が労働貴族の巣であった、電灯会社を閉鎖したように、である。
フォックス(7*)は舵取り叩きをしなかったばかりか、反対に自分が叩かれてしまった。
(訳注:1~5はメキシコのPRI『制度的革命党』出身の歴代大統領、6,7は保守中道のPAN『国民活動党』出身の大統領。カルデロンは現役大統領である。)

どうして人々はあなたを嫌うの?

先週、小学校4年の一児童がオバマ大統領に「どうして人々はあなたを嫌うの」と質問した。同時に、児童は「神が『汝の隣人を愛せよ』と仰ったように、人々はあなたを愛さなくてはならない」と付け加えた。
オバマの返答は米国社会が抱えている諸問題を示してくれた。大統領は「物事は気長に、上機嫌に、そして少々塩味を利かせて取り扱われなければならない」と返答した。
塩味への言及は、ローマ時代のポンペイウス将軍が毒薬を飲まされた可能性があった時、毒を中和するために、小量の毒を解毒剤として飲んだ故事に由来する。
この時、ポンペイウスは毒に小量の塩を入れて飲んだ。結局、この解毒剤は何の役にも立たず、最後に彼は逃亡先のエジプトで殺害されてしまったのだが。

ローマの将軍ほど劇的ではないが、選挙に負けて衝撃を受け、希望をくじかれた人々がオバマを批判している、とオバマは受け取っている。他方、金融危機による失業、或いは銀行の借金のかたに我家を取られるのではないか、と心配、または怒っている人々も多い。そう言う人々がオバマを嫌っているのだ。
オバマは改革の動きは止まらないどころか、必ずや実行するし、改革はやっと始まったばかりなのだ、と語った。
オバマは更に児童に「君がアメリカ大統領ならば、これらのこと事に立ち向かなくてはならない。上手く運べば人望を集めるが、間違えば過ちの責任を取らなければならない。これが大統領の役目なのだ」と話を締め括った。

小学校4年生が人々はオバマを嫌っている、と言ったが、全てが不愉快なことのみではない。「何故人々はあなたを嫌うの」と訊かれた数時間後、オバマは「ヒスパニック民族、またはラテン民族の日」の集会にミッシェル夫人と共に参加、楽しんでいた。
ところで、ヒスパニックもラテンも上品な言い回しだが、ラテン民族はポンペイウスの時代からもう存在しないのであり、ヒスパニック民族はイベリア半島の住人であって、シカゴ、ロサンジェレスやニューヨークのメキシコ人街にはいないのである。
スペイン文化遺産を祝うヒスパニック民族の日の集会で、前もってミッシェル夫人の同意を得ていた、メキシコ女優のタリアはオバマ大統領とダンスを踊った。「マッチョ!」という掛声を受けた、オバマはトロピカル音楽に合わせて、タリアと巧みにステップを踏んだのだった。

“Yes ,we can” はMade in Mexicoのスローガン

大統領選挙キャンペーン中、オバマが使用して有名になった、スローガンの原作者が誰かは明らかにされていない。私はメキシコのマタモロス市(テキサス州との国境の市)の少年野球チームがウイリアムスポートで開催された、少年野球世界選手権に出場した際、応援団として同行した父母たちがスローガンの作者である、と考えている。
父母たちが使った、スペイン語の「Si se puede」の英訳が「Yes, we can」であるが、このスローガンを使用したマタモロスのチームが世界チャンピオンになったことで、「Si se puede」はメキシコですっかり有名になった。10年前、メキシコのPRI(制度的革命党)のロベルト・マドラッソ大統領候補がこのスローガンを選挙運動に使用したが、落選してしまった。
オバマは「Yes, we can」を使用してヒラリーを破って、民主党の大統領選挙の候補者となり、更に本選挙ではマッケインに勝ったのである。
今、合衆国は、種々の困難が拡大し、問題は山積している。提案された改革の開始も儘ならない。そこで、オバマを勝利に導いた、この大成功スローガンを変革して、「No, we can`t」
にしたらどうか、と提案される始末だ。
何故ならば、少なくとも今現在、オバマと民主党は改革は進めたいが、「No, we can`t 」だからだ。
(終り)

著者紹介
Dr. Mario Melgar メキシコ市生れ
法学博士、メキシコ国立自治大学教授
同大学 サンアントニオ(テキサス州、USA)キャンパス 学長
弁護士、政治評論家、メキシコのニューヨーク・タイムズと言われる、Excelsior紙
に持つ彼のコラム「三点リーダー」等で健筆を振う
趣味はオートバイ乗り

医師の巻 三連発


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職業意識

豊満な奥さまは医師に不服を申し立てた。
「先生の厳しいダイエットのお陰で、気が狂いそうですわ。実は昨日、宅とセックスしたのよ。あんまりお腹が空いていたので、思わず宅の耳を噛んでしまい、出血させて仕舞いましたの」
医師:「問題ないですよ。多くても30カロリー位ですから」

残りの人生

ドン・ウルティミオは医師の診察から心痛のあまり暗い顔をして帰宅した。
奥さんに事情を話す。
「先生が薬を呉れたんだ。残りの人生、毎日一錠づつ呑めと言ってね」
奥さん「呑めば良いでしょ、でも何を心配してるの?」
陰鬱な顔で、ドン・ウルティミオ:「7錠しか呉れなかったのだよ」

100まで生きる

患者:「先生、どうしたら100まで生きられますか?」
医師:「そうだね、美味い物は食べない。酒も飲まないで、女も遠ざけることです」
患者:「そうすると、100まで生きられる訳ですね」
医師:「NO! でも、100才の老人には見られますよ」

お後が宜しいようで。

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