アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2010年03月

Alfonso & Maricela の結婚式(下)


仮装舞踏会の模様

ディナーの後は仮装舞踏会の様なバイレ(ダンスパーティー)が華やかに繰り広げられた。

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上)披露宴の様子   
中)披露宴会場の隣室に子供たち用に「ゲーム・センター」が設けられた。
傑作だったのは、子供たち用の電動ロデオが大人たちに大人気で、花嫁、花婿もトライしたのだった。
下)午前1時、夜食のメキシコ料理が振舞われた。メキシコの良き時代の結婚式は昼、夕
朝と三食付いたものだった。

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仮装舞踏会の模様

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上)仮装舞踏会           下)午前2時半、お開きとなった

(終り)

Alfonso&Maricela 結婚式(上)

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アルフォンソとマリセラ、メキシコ風は新婦を先に書くが、米国は新郎を先に書く

三年半前、18年連れ添った、クリスティーナを亡くした息子のポンチョことアルフォンソがお陰さまで再婚した。お相手のマリセーラは36才の弁護士でメキシコ第二の都市、グアダラハーラ出身の素敵な女性である。マラヴィーヤと愛称される新婦は三年前離婚した三人の子連れで、13,11,9才の彼女の息子たちは揃ってハンサム、元気一杯、スポーツ万能の良い子たちだ。もう内の孫たちとはすっかり仲良くなっている。
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富田/ヴァルガス両家家族

二人は一年前、共通の友人の紹介で知り合ってから、トントン拍子で話が進み、2月20日、挙式の運びとなった。花嫁はポンチョより一回り若いので、彼は「親父に孫をもう一人プレゼントする」と公約したので、七人目のお祖父ちゃんになれそうである。メキシコは、孫が生まれる、と表現する代わりに、「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんになる」と言うのである。

さて、カトリックの二人が再度教会で挙式するためには、カトリック教会の許可が必要となる。幸い、彼らのケースは手順さえ踏めば、許可が出ることは確認されたが、それには日数が掛かるのである。メキシコ人である、マラヴィーヤと彼女の子供たちがサンアントニオに住むためには、ポンチョの籍に入り、滞在許可を申請する必要がある。
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上)民事婚の様子     中)ワルツを踊る花婿、花嫁  下)新婦のご両親  

と言う訳で、取りあえずサンアントニオで「民事婚」と披露宴を行い、教会の神前結婚は許可が下り次第、花嫁の故郷グアダラハーラで盛大に行おう、と言うことになったのである。何しろ、マラヴィーヤの一族は450人の大家族なので、揃ってアメリカまで来てもらうのは難しいのである。
メキシコの民事婚は、日本のように婚姻届に印鑑を押して市役所に届けるだけでなく、式場に迎えた判事さんと証人たちの面前で宣誓をして署名するのが、しきたりとなっている。
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G.ノーマン設計のTPC オークス・コース16番(パー3)から見た、ホテル

結婚式はサンアントニオで新装開業したばかりの、JW Marriotホテルで行われた。ホテルはマリオット・グループの中で最新、最大のホテルで、サンアントニオ市が
TOYOTAに次ぐ、第二の巨大プロジェクトとして、誘致開始から11年掛けて、やっと開業にこぎつけたものである。テキサス・スタイルの巨大且つ豪華ホテル(1100室)には、PGA直営のTPCゴルフ・コース(36ホール)から、流れる巨大プール、2,000人収容の会議場が一つ、1000人収容の会議場が二部屋、その他大小会議場が多数ある。
何しろラスベガスの向うを張って、コンベンションのお客さんを引張ろうというのが、狙いというのだから、気宇壮大である。

二人の結婚式はホテル第一号の式だったため、ホテル側が大張り切りで当ってくれたのは嬉しかった。準備のために何度も訪ねた、新郎新婦はホテルのスタッフたちに顔を覚えられて、バレ・パーキングの係員からも「おめでとう」と言われた、と新婦が喜んでいたほどだった。
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上)バルガス家のレイディーズ 中)花嫁の母と私    
下)花嫁の長男(ミリタリー中学校中尉)パト君と伯父叔母さん

式はメキシコからの新婦の両親、兄弟姉妹を始め、親戚、友人も多数参列してくれ、その数、150人だった。勿論、両人の子供たち6人も参列していた。新郎側は孫たちが夫々10人ずつ友人たちを引連れて参加、息子のメキシコの竹馬の友たちを含む、沢山のアミーゴスが式を盛上げてくれた。
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上)花嫁入場                 下)花婿入場                

式の主役たちは、花婿が長女アニータと、花嫁は次男ベルニーと三男サンティにエスコートされて会場に入場したのが、印象的だった。
滞りなく式は済み、子供たち始め、一同の祝福を受けて、ご両人は幸せそうだった。
ホテル最初の結婚式と言う訳で、ホテル総料理長と宴会場総料理長が腕によりを掛けた、ディナーは、素晴らしいの一語に尽きた。興味深かったのは、二人の料理長が共にアメリカ人ではなかったことだ。

ディナーの後は仮装舞踏会の様なバイレ(ダンスパーティ)が華やかに繰広げられた。
宴は午前1時、夜食のメキシコ料理が振舞われた後、2時半まで、賑やかに続いたのだった。
翌日、二人はアスペンとラスベガスへの二週間の新婚旅行 へと旅立って行った。
(続く)

体温計

その患者さんは頑固で怒りっぽい老人だった。
何事に付け、看護師さんを叱りつけ、おまけに口汚く怒鳴るのだった。

看護師たちは皆、あたまに来ていた。
或る日、或る看護師が老人にこう言った。
「熱を計ります。お尻で測りますから、うつ伏せになって下さいね」
いやいやながら、老人はうつ伏せになり、お尻を出した。看護師は体温計をお尻に差し込んだ。
「そのままでいて下さいね、直ぐ戻ってきますから」と言って、看護師は部屋から出て行った。

しばらくして、二人の医師と患者の奥さんが部屋に入って来た。
三人は患者を見るなり、ゲラゲラ笑い出した。
「何が可笑しいのだ。病人が熱を測るのを見たことが無いのか、あんたたちは」と老人は怒った。
一人の医師が「はい、見たことありますよ。しかし、赤いカーネーションで測るのは初めてですね」と言った。

お後が宜しいようで。

デイビイ・クロケット死去

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(左)フェス・パーカー(1925~2010)       (右)毛皮帽をかぶった、クロケット 

先週18日、‘Davy Crockett dies‘ (デイビイ・クロケット死去)との見出しがアメリカの新聞のトップを飾った。
サンアントニオ、いや、全米の記念碑的存在である、アラモの砦を死守して、Davyが200名の戦友と共に戦死したのは1836年3月6日のことだった。
新聞が報じたのは、この歴史的事実ではなく、1955年ディズニー製作の「フロンティアーのキング、デイビイ・クロケット」を演じた、主演俳優フェス・パーカー(85才)の死だったのだ。
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米国の聖地、アラモの砦、クロケットはここで戦死した

1955から56年に掛けて放映された、TVミニ・シリーズ「デイビイ・クロケット」は6.6フィート(198cm)の長身のフェス・パーカーのパーソナリティと名演技によって、アラモの砦に対する、国民的関心を巻き起こした。特にテキサス州民は、このミニ・シリーズによって、テキサスの住民である誇りと、郷土愛を弥が上にも高まったのだった。
これ以後、ジョン・ウエインの名作「アラモの砦(1960年)」を始め、30本近くの映画アラモの砦が製作されている。アラモの砦は謂わばアメリカの忠臣蔵なのだ。
アラモの砦(The Alamo、サンアントニオ、テキサス州.)はアメリカ本土で米国が敵軍に敗れた、唯一の戦跡であることから、「1836年の英雄たちの聖地」として数多の米国人が訪れる旧跡である。

フェスの愛娘、アシュレイは「実のところ、私はデイビイと父が違う人物とは思えないのです」と父の死後語ったが、デイビイ・クロケットと言えば、誰もが洗い熊の毛皮帽をかぶった、フェス・パーカーを思い浮かべるのだった。

フェス・パーカーは1925年、テキサス州フォート・ワース市(ダラスの隣町)生れ。第二次大戦中、空軍に入隊したが、背が高過ぎてコック・ピットに入れないために、パイロットへの道は閉ざされ、海兵隊に入隊した。除隊後、テキサス大学を卒業、南カリフォルニア大学の修士課程で演劇史を学ぶが、俳優の仕事がふえたため、中退している。
そして、1955年のディズニイのTVミニ・シリーズ「フロンティアのキング、デイビイ・
クロケット」で一躍スターとなった。
後、1961年から67年にかけて、これもフロンティアの英雄、ダニエル・ブーンを演じて、スターの座を揺るぎないものにしたのだった。
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Fess Parker Winery(フェス・パーカー・ワイン醸造所)

フェスは俳優引退後、カリフォルニアのロス・オリーボスに1500エーカーのブドウ園を購入して、一家でワイン醸造を始め、大成功している。その傍ら、各所でホテル経営も行っている。彼のワイン醸造所は、Fess Parker Wineryと言う。

デイビイ・クロケットことフェス・パーカーさんのご冥福をお祈り申し上げます。
(終り)

2010年 世界一富豪はメキシコ人、カルロス・エスリン氏

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ドン・カルロス・エスリン氏(70才)

フォーブズは本年度の世界一の富豪はメキシコのカルロス・エスリン氏だ、と発表した。
エスリンは最近15年間、フォーブズ億万長者番付の上位の常連だったが、常にゲーツ、バッフェット両氏の後塵を拝して、二位か三位に甘んじていたが、今年は終に一位に輝いた。

フォーブズ億万長者番付

2010年          2009年           2008年
1. エスリン   587      1.ゲーツ     400      1.バッフェット 620
2.ゲーツ    530      2. バッフェット 370      2.エスリン    600
3.バッフェット 470      3. エスリン   350      3. ゲーツ    580
(単位:億万ドル)

ゲーツ、バッフェット両氏は共に米国人で、ゲーツは御存じ、マイクロソフトの創立者兼オーナーであり、バッフェットはニューヨークの投資家である。一方、エスリンはメキシコでTelmex
(電話会社)、Telcel,America Movil(携帯電話)、インターネット等の通信事業の他、Condumex,
Cigatam等の製造業、ホテル等の観光事業、サンボーンズ、シアーズ等の小売業と幅広い事業をメキシコのみならず、ラテンアメリカ諸国で展開している、ことが特徴であり、ニューヨーク・タイムズ社の6.9%の株主でもある。エスリンが経営する、CARSOグループは200社を数え、従業員は20ヵ国、21万余に達する。

エスリン氏は「タイルの家」のオーナー

筆者はBlog アメリカ便りの中で、「タイルの家物語」を連載中であるが、16世紀に建設された、タイルの家は、エスリンが経営する、ドラッグ・ストア「サンボーンズ」の旗艦店なのである。因みにサンボーズは100年の歴史と100店舗を数え、中でも「タイルの家」店はメキシコ・シティーのランドマーク的建造物として市民に親しまれている。

カルロス・エスリンはレバノン移民の息子として、1938年メキシコ市で誕生、メキシコ国立自治大学の土木工学科卒。在学中、同大学で高等数学の教鞭を執った程の伝説的秀才だった。
25才で最初の会社を設立している。

エスリンはフォーブズの億万長者番付の調査員から、「メキシコのような貧乏国で斯くも巨大な資産を築く矛盾」を批判された。メキシコ国内でも、権力者との癒着を疑われたこともある。これ等の批判は或は当っているかも知れない。しかし、国外では、エスリンは類い稀なるビジネス手腕の持主と評価されている。彼は生まれながらの商業民族であった、フェニキア民族の血を引くレバノン人の子孫だけのことはあるのだ。
その上、彼の私生活は家族を大切にする、良き夫、父であり、大富豪らしからぬ、飾らない人柄の持主だと、言う。
また、エスリンは35億ドルの基金を提供して、「カルロス・エスリン基金」を創設、慈善事業の面で大きな貢献をして、巨万の富を社会に還元するのも忘れていない。この基金が運営する、ICS(Carso健康研究所)は、メキシコ及びラ米諸国の低所得者層の新生児、乳幼児の死亡率低減を目指す、各国政府、大学、研究所、病院に資金を援助して、多大の成果を挙げている。
また、基金は才能ある学生に奨学金も提供し、恩恵に与った学生は165,000人に上る。

メキシコ人はエスリンをこう見る

大多数のメキシコ人(私を含めて)はドン・カルロス・エスリン氏の快挙を我がことのように喜んでいる。勿論、そうとは見ない人たちもいる。では、同胞の快挙をメキシコのインテリはどう見ているか。私の尊敬する、フエンテス・アギレ教授の示唆に富むコメントを紹介する。

伝統的カトリック教国である、メキシコでは、「富は忌まわしいもの」と考えられている。お金は悪魔のフンとさえ言われる。一方、プロテスタンティズムの考えでは、経済的繁栄は「良く働き、節約する者への神の褒美」と考えられている。そう言う国々では、金持ちは称賛の的なのである。しかるに、メキシコでは恨みがましい嫉妬の対象でしかない。
スペインの征服者に随行して来たカトリック信仰は、永年に亘って国民に「現実へのあきらめとあの世での希望」を説教して来た。この教えが「如何にメキシコ人を貧乏にしたか」を見極める必要がある。
メキシコ人が世界一の富豪になったことを多くの同胞が「快挙」と見做したことは、メキシコ人の精神的呪縛を解く、第一歩と言える。我々も徐々にではあるが、近代的世界に入りつつあるのだ。
(終り)

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