アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2010年08月

支倉常長物語 遣欧使節にされた侍(1)

大航海時代以後のイベリア両国

イベリア両国民が、8世紀初頭より6700年の間、イベリア半島を占領支配したイスラム教徒のモロス(ムーア人)を半島から全面追放したのは、14921月のことだった。祖国の再征服を成し遂げたイベリア両国民は、異教徒による占領と抑圧の反動から、カトリック教への信仰心がより強まって来ていた。
この傾向は、特にスペインのフェルナンド及びイサベラ・カトリカ両王に著しかった。
 
大航海時代以後、イベリア両国の香料と黄金を求めての貪欲な領土獲得運動と新世界の異教徒をカトリック教徒に改宗せんとする伝道活動は、恰も車の両輪のように、インディアス即ちアメリカ、アジア両大陸で熱狂的に推進されていった。イベリア両国による新世界の征服は、領土のみならず、住民の魂の征服でもあった。
 
149210月のコロンブスによるアメリカ発見は、当時獣肉の防腐、防臭に欠くことの出来なかった香料の産地であるインディアス即ち東洋へ海路到着せんとすることが、目的の一つだった。他の目的の一つは、黄金国ジパングを発見する事だった。香料は、遠く東洋か
らアラビア人たちの隊商によって欧州に運搬されていた為、非常に高い値で取引され、膨大な利益を生む交易品であった。
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左の地図)コロンブスの7回のアメリカ大陸への航海に参加した、スペインの航海者、地図制作者、フアン・デ・ラ・コサ作成の最初の米大陸入り世界地図。緑部分がアメリカ、右はヨーロッパ。
下の地図)1506年、6回目の航海時、氏が作成した世界地図。
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ところがコロンブスが発見したのは、インディアスではなく、ヨーロッパ人には未知のアメリカ大陸であった。
アメリカには香料はなかったが、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、ペルーで豊富な金銀が手に入った。しかし、イベリア両国の香料を求めての探検は、止まることはなかった。
こうして、15世紀後半には、これまでヨーロッパ人には未知の新世界で、ポルトガル、スペイン両国の陣取り合戦が始まった。
 

ポルトガルの東洋及び日本進出

ポルトガルは、スペインに先んじて13世紀半ばにイスラム教徒の国外追放に成功した。そして数十年に亘る王位継承戦争を経て、1385年、他のヨーロッパ諸国に先駆けて、ジョアン一世が国内統一を達成した。
このジョアン一世の子息エンリケ航海王子は、ポルトガルが、広大な大西洋に面している地理的条件を利用して、大西洋の南北に乗り出して行く政策をとり、大航海時代の立役者となった。
ポルトガル人たちが、1498年にバスコ・ダ・ガマが発見した喜望峰経由のインド航路によって、夢見ていたインディアス即ち東洋に海路到着したのは、ジョアン二世時代の1510年だった。彼らは早速アラビア海に面するゴアに拠点を作り、香料の欧州向け輸出を開始した。
 
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地図:16世紀のポルトガル航海者の希望岬経由のアジアへのルート。インド航路と呼ばれた。
 
そして翌1511年、ポルトガルは香料の一大産地の香料諸島(The Spice islands、又はThe Malucca Islands)を支配するに至った。香料で稼いだ大金は、ポルトガル王室の懐を暖め、植民地獲得とカトリック教伝道の資金となった。
やがてポルトガルは、北進してマカオに前進基地を設ける。そのころポルトガルは、東洋でのカトリック伝道を1534年創設のイエズス会に一任していた為、イエズス会は、ゴアに東洋本部を、マカオに支部を開設した。そして1543年、東シナ海を航行中のポルトガル船が、種子島に漂着して、日本に鉄砲が伝えられた。彼らが日本に現れた最初の南蛮人だった。6年後の1549年、イエズス会創設者の一人フランシスコ・デ・ザビエル神父が、鹿児島に伝道を目的として上陸した。ポルトガルは、地球を東回りして日本に到着したのだった。ポルトガルから喜望峰経由でゴアまで一年、更に日本へはもう一年の航程だった。
 
ところでザビエルのインド滞在中、彼に日本の情報を提供したのは、殺人を犯してインドに逃亡していたヤジローと言う薩摩藩士だった。ザビエルは、この日本青年から得た知識により、日本人とシナ人は、「天竺(インド)と言う日本から一年半の距離にある学問が盛んな国の宗教(仏教)を奉じており、特に日本は、欧州諸国並みの文化を持つ国」と知り、日本へのカトリック伝道を決意するに至った。
 

スペインの東洋進出

一方スペインは、コロンブス(イタリー語でコロンボ、スペイン語ではコロン、英語ではコロンブスと称する。本稿では人名、地名は出来るだけ日本での通称を使用することにする。)のアメリカ発見によって逸早く新世界へ進出し、1521年にヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)、1533年にペルーを征服した。因みにポルトガルは、1549年、ブラジルに初代総督を置いている。
スペインの東洋進出は、苦難に満ちたものだった。1513年、スペイン人バルボアがパナマ地峡を横断して太平洋を発見した。その太平洋を最初に横断したのは、1520年ポルトガル人マゼランを司令官とするスペイン艦隊が、大西洋から南米大陸の南端を経由して成し遂げたものだった。
 
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地図:マゼランの世界一周航路。赤はマゼラン自身の航路、緑はマゼランの死後、部下たちが採った、欧州への帰路の航路。
 
1526年、香料獲得に執着するスペイン王室は、ヌエバ・エスパーニャを征服したばかりのエルナン・コルテスに香料諸島への探検隊派遣を命じた。コルテスは、太平洋岸のアカプルコ港から艦隊を派遣し、今回は香料諸島へ無事到着したが、既に同島はポルトガルの支配下にあったため、止むなくアカプルコに引き返さざるを得なかった。
これは1494年にスペイン、ポルトガル両国がローマ教皇の仲介によって結んだトルデシーヤス条約により南アジアは、ポルトガルの勢力圏と規定されていたためである。尚この条約は、新世界での領土紛争を避けるため、世界地図上、両国の勢力範囲を等分したものだった。
そして両国の勢力圏に侵入する他国籍の船は、両国の権益を侵害したとして、攻撃、拿捕し、船、積荷共に没収した。このルールは、勿論スペイン、ポルトガルにも適用された。
 
しかしスペインは、南太平洋の制海権を放棄した訳ではなく、引き続きヌエバ・エスパーニャから同地域に探検隊を派遣し続け、1542年ロペス・デ・ビジャロボスが率いた艦隊は、ミンダナオ島に到着し、これをスペイン皇太子フェリペ殿下に因んでフィリッピンと命名した。フィリッピンは、資源に乏しかったが、スペインは、同諸島を東洋でのカトリック伝道の本拠地と位置づけ、資金はヌエバ・エスパーニャ産の金銀を惜しみなくつぎ込んで、1564年植民地支配を開始した。当時彼らは、「伝道が国是、貿易は生活必要物資を調達するため」と認識していた為、同植民地の赤字経営は、意に介しなかった。
 
スペインの東洋でのカトリック伝道は、新世界アメリカと同様に、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティーノ会のいわゆる托鉢修道会派に委ねていた。ところが日本に関しては、ポルトガルが後援するイエズス会の独り舞台で、スペインが付け入る術はなかった。
 
この様にスペインは、地球を西回りして日本に近づいて来ていた。先ず大西洋を横断してヌエバ・エスパーニャの大西洋岸のヴェラクルス港に上陸した後、陸路太平洋岸のアカプルコ港に向う。同港を出港して太平洋を横断し、フィリッピン経由で九州に渡ってきたのだ。二年を要する旅程だった。
さてスペインは、ヌエバ・エスパーニャから東洋への西行路は発見したものの、復路即ち安全な東行路の発見が出来ず、新大陸と東洋領土間の交通は、「行きは良い良い、帰りはこわい」の状態が、数十年間続いていた。スペイン人ウルダネッタが、やっと安全な東行路を発見したのは、1565年のことだった。
 
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地図:アンドレス・ウルダネッタ、スペイン航海者、マニラからメキシコへの東行路を発見した。下部の線が西行路、上部が東行路。これがアカプルコ→マニラ→アカプルコのスペインのルートだった。
 
この航路は、フィリッピンを出航後黒潮に乗って北上し、日本列島を左に見つつ航行を続けた後、奇しくも伊達領の鼻先の金華山沖で面舵を取り、東方のアメリカ大陸へ北太平洋海流と偏西風を利用して航行するものだった。この東行路の存在こそが、徳川幕府をして遣欧使節派遣を伊達政宗にまかせた要因の一つであった。
 

スペインの日本進出

托鉢修道会会員が、始めて日本に着いたのは、マニラからマカオに航行中の一船が暴風に遭って思いがけなく平戸港に入港したのが最初で、1584年の夏だった。彼らは日本人から歓迎されて気を良くし、フィリッピン帰島後、日本での伝道を志すに至った。ところが15851月、ローマ教皇グレゴリオ13世の「日本に於ける伝道はイエズス会員に限る」との勅書が発布されたため、彼らの希望は挫折しかかった。
 
これは東洋に於けるイエズス会のパトロンは、ポルトガルであり、托鉢修道会派のパトロンはスペインであったことで分かる通り「魂の征服」バトルに於いてもポルトガルとスペインは、対立していたのである。しかし、1580年以来、ポルトガル王も兼任していた、スペイン王は実力に任せて、後援する托鉢修道会員をフィリッピンの外交使節として度々日本に派遣するなどして、日本での伝道に意欲を示した。しかし日本に於ける伝道では、1549年日本に上陸したイエズス会に40年の遅れを取っていたスペイン人は、異教徒である日本の宗教、文化、習慣を理解する上で、その経験の差は如何ともし難く、致命的な失敗を重ねていくのである。
 
では次章では、両修道会の日本に於ける栄光と挫折の跡を簡単に辿ってみよう。
(この巻終り)

浅草サンバカーニバル30周年

30周年を迎えた、浅草のサンバカーニバルが28日、浅草の雷門通りなどで開催された。
サンバカーニバルは50万人の観客を集めて、厳しい残暑のなかで、23チーム、4500人のダンサーたちがカリオカ・ムード満点の踊りを披露した。
 
主催者によると、浅草カーニバルは世界第2位の規模と言う。
1位はむろんリオ・デ・ジャネイロだ。コンテストは40分の制限時間中、「移動オペラ」さながら、パレードしながら、1年間準備して来た、踊りと衣装を競いあった。
 
今年は、建設中のスカイ・ツリーも、集まった観客の興趣を大いに盛り上げてくれた。
 
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Kenzo 目を開ける

祖父さん馬鹿と笑わば笑え!
 
生後5日、Kenzoの目が開いた写真を公開します。
 
写真は家族の友人の女性プロ写真家が撮ってくれました。
 
彼女曰く「やっと、目を開けてくれた」
 
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3番目の写真はお姉ちゃんのアニータと。彼女は今日、NYU(ニュウーヨーク大、パリ分校)に入学すべく、パリに出発した。
後ろの紳士は Kenzo の母方のお祖父ちゃん。

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支倉常長物語(遣欧使節にされた侍)

はじめに

「雪が降った。
夕暮れ、雲の割れ目から薄陽を石ころだらけの川原に注いでいた空が暗くなると、突然、静かになった。雪が二片、三片、舞ってきた。
雪は木を切っている侍と下男たちの野良着をかすめ、はかない命を訴えるように彼らの顔や手にふれては消えた。(中略)
やがて侍と下男たちは仕事をやめて木の束を背負った。間もなく訪れる冬に備えて薪をつくるのである。侍は薪を背負って、家に入る。
押しつぶされたように並んだ藁葺きの家は、天井に竹で編んだ簾の子を張り、そこに薪や茅(ちがや)を干している。家畜小屋のように臭く、暗い」
「侍」は慶長遣欧使節をテーマとする小説であるが、「作者は細心なまでに史実に忠実であろうとする。本書中、支倉についての記述は、そのほとんど全てが事実である」(カリフォルニア大学助教授、ヴァン・C・ゲッセル)と文学としての価値は勿論、当時の世界及び日本の情勢、カトリック教会内の事情を正確に作品に反映させていることが評価されている。
 
英語、スペイン語、フランス語に翻訳された本書が世界のカトリック信者の読者を魅了したのも当然と言えよう。
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        南蛮屏風(部分) 
        16世紀に来航した南蛮船  狩野内善画
        重要文化財  神戸市立博物館蔵
 
侍はキリシタン神父に伴われて、キリシタン教国を数年間に亘って旅をした。そして侍がキリシタン信仰に目覚めて行く過程を描いた遠藤には、キリシタン禁教の祖国に帰った侍が、信仰に殉じて死を選ぶエピローグしかあり得なかった。
だが、二年前長崎で江戸時代に殉教した、188名の日本人がヴァティカンから福者に認定された際、列福者の名簿に支倉常長の名はなかった。歴史上の支倉の死は病死であり、彼の遺骨はお寺に埋葬されている。侍は信仰を捨て、家録を守ったのである。
 
さて、長々と小説の引用をしたのは優れた交響曲のイントロダクションのように、この部分が慶長遣欧使節の性格と行く末を見事に暗示していると思うからである。
 
誰が使節団を派遣したのか? 家康か、政宗か? 
家康は遣欧使節団が出航した1613年の二年前、キリスト教禁教令を発布している。
然るに何故キリスト教の大パトロンであるスペインの植民地ノビスパンに使者を送ったのか? 
家康でなければ、政宗か? 
使節派遣の目的は何か? 
使節団は目的を達したのか?
政宗が派遣したのならば、何故このような中級武士を敢えて使節に選んだのか?
慶長遣欧使節には色々謎が多いのである。
 
他方で、この小説を魅力的な歴史冒険小説とみる人たちも多い。事実あの時代、支倉は二つの大洋を横断し、地球を西回りして欧州に渡った最初の日本人であった。(注)
この観点から、この旅を郷土の英雄の一大壮挙と位置付け、彼らの乗船の原寸大のレプリカを作り、支倉の銅像を通過した国々に寄贈している自治体もある。又ある西洋美術が専門の国立大学教授は、ローマに残された有名な支倉の肖像画を検証して、支倉の表情が生き生きとして明るい点に着目し、使節団は成功したと結論付けた。
ところがこの肖像画は支倉のものではないことが、最近の研究で明らかになった。
 
さて、日本人と南蛮人との最初の出会いは、1543年(天文12年)、種子島への鉄砲伝来のときであった。大航海時代の主役たちだった南蛮人が、東洋の果ての夢の国、ジパングに到達するまでには、数世紀が必要だった。それ程奥南蛮と日本は隔たっていたのだ。そして、その70年後の1613年、侍は未知の奥南蛮(ヨーロッパ)に旅立って行った。
さて、支倉常長の壮挙を記す前に、次回はポルトガル、スペイン両国が牛耳っていた、当時の世界情勢を振り返ってみたいと思う。
 
尚小文の日付は、全て洋暦を使用している。
(この項、終り)
 
(注)欧州に最初に渡った日本人は支倉より31年前の15822月にローマに使いした「天正遣欧使節」の4少年たちだった。彼らは九州のキリシタン三大名の親善使節として、イエズス会東インド巡察使ヴァリリャーノ神父に付き添われて、東回り、即ち、長崎からインド、喜望峰を経てスペインに到着後、バルセローナから海路ローマに入った。彼らはローマ教皇に謁する栄誉を受け、各地で大歓迎を受けた。因みに本能寺の変は天正遣欧使節が出発した同じ年の621日に起こっている。彼らの帰国は8年後の1590年だった。

 
子どもに語れる小話/アメリカ産
 

ピーナッツ

お年寄りのグループを乗せた観光バスの運転手は、
一人の可愛らしいおばあちゃんに肩を叩かれた。
 
彼女は運転手に一握りのピーナッツを分けてくれた。
なかなか美味いピーナッツだった。
 
15分後、今度は別のおばあちゃんが一握りのピーナッツを持って来てくれた。
 
こうして56回、彼女たちは運転手にピーナッツを分けて呉れた。
 
最初の可愛らしいおばあちゃんが再びピーナッツを持ってきてくれたとき、
 
運転手:「どうしてあなたたちはピーナッツを食べないの?」
と訊いた。
 
すると、
おばあちゃん:「私たち、ピーナッツは噛めないのよ」
と言った。
 
不審に思った運転手:「じゃ、何故ピーナッツを買ったのさ?」
と訊くと、
 
にっこり笑ったおばあちゃん:「私たちは外側のチョコレートがお気に入りなのよ」
 
お後が宜しいようで。

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