アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2011年10月

一笑一若 

メキシコ小話 「つまずき」

アントニオ神父は、教会の女性信者たちが「夫以外の男と一緒にいました」
と、懺悔するときの話しかたを不快に思っていました。
 
そこで、神父は彼女たちが懺悔に来ると、
「そんな不道徳な言い方でなく、『神父様、私はつまずきました』とだけ言
いなさい。それだけで、私はお前たちが不倫の罪を犯したと、分かります」
と言いました。
 
すると、幾日も経たないうちに、村中の人たちに「つまずく」が何を意味す
かが、知れ渡っていました。
 
 やがて、アントニオ神父は別の教会に移り、代わりに若い神父が赴任して
ました。
 ある日、若い神父は、村役場の会議に招待されました。
 
会議で若い神父は発言を求めて、こう言いました。
「村長さん、村の歩道の補修をするよう、係りに命じてください」
 
すると、村長は、
「今の村の財政状態ではとても無理です」と答えました。
 
神父は村長に、
「何処からか資金を融通してでも、是非直してください。
何故なら、あなたの奥さんはほとんど毎日、つまずいているそうですよ」
と言いました。
 
お後が宜しいようで。

三笠宮さま、岸総理、そして南米派遣

 
先週の新聞(20111022日)に、三笠宮ご夫妻がご結婚70年を迎えられた、と報道されていた。三笠宮さまは皇室で最高齢の95歳、百合子妃殿下は88歳になられた。お元気そうな宮様の写真を拝見して、53年前の早稲田祭を思い出した。
 
昭和33年(1958年)の早稲田祭開催に当たり、早大移住研は、すでに恒例となっていた展示会の他に、三笠宮様をお招きして「インカ帝国遺跡マチュピツについて」と題する講演会を開催した。
これは移住研の部長をお願いしていた滝口宏教授(人類学)が当時東京女子大講師だった三笠宮さまとお近づきであったことが幸いして、実現したものだった。
 
 我々が三笠宮殿下をお迎えして、大学で講演会を開催した実績が、翌年、日本海外学生移住連盟(学移連)主催「岸総理南米事情講演会」開催に役だったのである。
一大学に宮様の講演会が出来た。それなら60大学を数える連盟は、「総理を呼べる」と言う自信が生まれたのである。
 
そして、総理講演会から、連盟員の「第一回実習調査団派遣」がひょうたんから駒のように実現したのである。ホップ、ステップ、アンド ジャンプと言うわけである。
詳しくは、
をご覧頂きたい。
 

三笠宮殿下、日本人ブラジル移住50年祭にご臨席

昭和337月、ブラジルで「日本人ブラジル移住50周年記念祭」が開催された。
式典には日本から天皇陛下のご名代として三笠宮及び同妃殿下がご臨席された。
戦後、ブラジルの日本人は「勝ち組、負け組」に分裂し、抗争問題に発展していた。
移住50周年記念祭を開く際も、勝ち組は非協力的であったが、三笠宮様が出席すると分かると、事態は一変、双方の協力体制がひかれ、以後和解に進んだ経緯があった。
 
当時南米の情報に飢えていた我々、移住研のメンバーは帰国されたばかりの、三笠宮様に講演の依頼を行ったのである。
すると、宮様は『ブラジル移住について、講演するほどの知識も資料もない』とおっしゃったが、宮様は帰途、ペルーに立ち寄られていたので、それではマチュピチュの遺跡についてお話頂けないでしょうかと再度お願いし、お引き受け頂いたのである。
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世界遺産・ペルー・マチュピチ遺跡 (写真:ペルー観光公社)
 
宮様講演会の発端はこうだった。早稲田祭の企画会議をしたとき、展示会とCafé de Wasedaの他に何か「大きいこと」をやりたいという話になった。そして、ブラジル移住50年祭に参列された三笠宮様をお招きして、南米の話をして頂こう、と計画したのである。
宮様との最初のコンタクトは東京女子大への電話だった。電話口に出た宮様の女性秘書は、「宮様にお伺いしますから、一週間後再度電話して下さい」と医院の予約受け付けのように淡々と応対したらしい。
その後、先述した滝口教授の口添えはあったが、三笠宮講演会はすんなり実現の運びとなった。それにしても、当時は全てがノンビリしていたのである。高貴な方は「人を疑うということが無い」と言われるが、宮様は「見も知らずの学生の電話だけで講演会を引き受けて下さったのだ。将にNoble(高潔、気高い)そのもののお人柄なのである。
 
 しかしそれからが大変だった。何せ学生のこと、当日どのように宮様に応対したら良いのか、全く分からなかったのだ。しかし、数ヶ月前ブラジル二世のタムラ連邦議員が早稲田を訪問した際、後藤君、村井君、富田の三人は、大浜総長とタムラ氏の通訳を務めた縁で、総長と面識があったことが幸いして、大浜総長は全面的に協力して下さったのである。
やがて、その日となった。
 
宮様の秘書が、「宮様は大隈講堂の前で落合いましょうと仰っています」とのことだったので、当日我々は講堂前でお待ちしていたところ、三笠宮様は女性秘書運転のダットサン・ブルーバードで到着された。
大浜総長も学生と共に宮様を出迎えて下さったそうであるが、私には全く記憶がない。
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左.早稲田祭(1958年)海外移住研の展示会場の宮様。宮様の右は西野入、滝口両教授
右.早稲田祭のCafé de Wasedaにて、左から:細井、森田、小島、村井、山本、筆者
 
講演会の準備と当日の進行は幹事長だった山本雅俊君等、三年生が担当したが、我々4年生にも役割が分担された。覚えているのは、後藤薫君(サンパウロ在住)が好評封切中の吉永小百合の主演映画を借りてきて、講演終了後上映したことだ。
映画終了後、後藤君は次の上映館にタクシーに乗ってフィルムを届けに行ったものだ。
私は滝口教授のご指名で、宮様のご案内役を仰せ付かった。その際、教授から宮様を「三笠先生」とお呼びするよう指示されたことを記憶している。
 
さて、会場は超満員となり、三笠先生は当時日本人は誰も知らなかった、マチュピチュをカラースライドを駆使して紹介、解説され、聴衆を魅了して下さった。スライドの映写は山本君が担当した。
そして講演会は無事成功裡に終了出来た。
 

三笠先生、漫画展をご見物

 講演の後、三笠先生は移住研の展示場に足を運んで下さって、一通り展示内容をご覧になり、我らが「Café de Waseda」のコーヒーもご気軽に試飲して下さった。コーヒーはブラジル・コーヒー院東京支局が寄贈して呉れた特級品だった。
 
続いて我々は三笠先生の「もう一つだけ展示会を見たい」とのご要望を入れて、早稲田祭の一番人気の「漫画展」にご案内した。
当時の漫画展は4コマ漫画を実物大の人形を使って展示する方法を取っていて、実に面白かった。それもその筈、後年日本の漫画界をリードする、東海林さだお、園山俊二、福地泡介等の俊才たちが作品を展示していたのだ。
ところが、三笠先生は漫画の意味するところがさっぱりご理解出来ないのだ。例えば、「鮨詰めの満員電車のシーン」をご覧になっても「満員電車」にお乗りになったことがないので、「満員電車とは何ぞや」から説明しなければならなかった。
後藤君、佐藤喬君、村井修君(サンパウロ在住)山之内良隆君(故人)山本君等々の諸君が私を助けて、三笠先生に説明してくれたことを良く覚えている。
その時、先生は実に悲しそうな顔をなさって、「我々皇族は一種の片輪ですね。国民の皆さんのことを何も知らないのですから」と仰って今にも泣き出しそうな顔をなさったのが印象的だった。

三笠先生と連れ小便

 
さて、三笠先生に辛い思いをさせて仕舞った、漫画展会場の商学部校舎4階へは、階段を歩いて登り降りして頂いたのだから、我々も相当非常識だった。エレベーターが無いため、止むを得なかったのだが。
一階に下りると、トイレに行きたいとおっしゃる三笠先生をご案内した序で、私は三笠先生と連れ小便をしたのである。二人並んで放尿していると、宮様からご下問があった。
「富田君、この『我が国の将来は、今君の手に握られている』とは何のことかね?」
運悪く、宮様の便器の前の壁にその落書きがあったのだ。漫画展の続きのような展開に、弱冠22歳の小生がどうその場面を切り抜けたのか、覚えていないが、あれは将に冷や汗ものの経験であった。
 
このハップニングで少々怯んだが、私は思い切って、自己紹介をしたのである。
「宮様、実は私は宮中の御用掛を務めていた、歯医者の加藤の孫です」と。
すると、三笠先生は「加藤は元気か? 加藤には世話になった」と祖父を覚えていて下さったのである。
「祖父は去年亡くなりました」と告げると、祖父の思い出話を語って下さった。
三笠宮様は小さい頃から祖父の良いお得意様だったのである。調子に乗った私は、「三笠先生のおたあさま(お母様)の貞明皇后様は時々、かりん糖を34本、御ひねりにして祖父に託して送って下さったものです」と語ったのである。すると、宮様はかりん糖はおたあさまの大好物だった、と懐かしそうに語って下さった。トイレの外の立ち話だった。
 
やがて、山本君から謝礼の金一封を受け取って、三笠先生は滝口教授以下、移住研メンバーの見送りの中ご機嫌よく御帰りになった。
懐かしき早稲田青春劇場の一コマである。
 
(終り)

一笑一若
 

メキシコ小話 「お疲れでなかったら…」

 真っ暗なさびしい夜道を歩いていた修道女の前に、
突然下劣、卑賤な男が立ちはだかった。
そして、男は腕力にものを言わせて、
哀れ修道女を彼のいやしい欲情の犠牲者としたのだった。
 
 ことが終わると、男は良心の呵責に耐えかねて、
修道女に無礼な行いのゆるしを請い、
このことを口外しないよう求めた。
 
 彼女は厳しく、「ダメです」と言ったのち、言葉をつづけた。
「私は修道院長さまに報告する義務があります。
『男は二度も私を凌辱しました』と、 
あの~、もしお疲れでなかったら…ですが」
 
お後が宜しいようで。

アラモの戦いとテキサス独立戦争 (5)

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1825年のテキサス地図、オースティンの最初の入植地は右手のブラソス河沿いに建設された              
 
入植地の面積と価格
1825年後期までにステファン・オースティンは300家族をオースティン・コロニーに入植させた。彼らが「ザ・オールド・300」と呼ばれる、テキサスのパイオニアたちだった。
オースティンがテキサス地方の知事・アントニオ・マリア・マルティネスから、入植地建設を許可された地域は、上記の地図の線内の区域、即ちGulf of Mexico(メキシコ湾,当時はまだスペイン湾と呼ばれた)沿岸のサン・アントニオからブラソス河に至る広大な土地だった。
 
入植者には三種のグループがあって、購入できる地面積に差があった。
1) 夫婦と二人以上の子持ちの家族:1,280エーカー(5
2) 独身農夫              :177エーカー(0.72㎢)
3) 牧場経営者             :4,428 エーカー(18㎢)
 
1エーカー(4047㎡)の地価は12.5セント(0.125ドル)だった。この地価は米国、ニュー・オーリンズ付近の農地価格の十分の一だったため、不況にあえぐ米国の農民も競って購入した。なお、入植者には、6年の支払い期間が与えられた。 
 また、独身者に177エーカーしか売らなかったのは、投機目的の不動産業者を締め出すためだった。牧場経営者には、農地には適さない広大な草原があてがわれた。入植者名簿を見ると、家族構成は10人以上の大家族も多く、意外にも奴隷の数は多くて二名、普通は一人だったことだ。もちろん、奴隷を持たない家族、農夫もいた。
 肝心のオースティンは、報酬として導入した200家族毎に、67,000エーカー(270の土地を受け取っただが、州政府、オースティンへの支払いが滞った入植者が多く、オースティンの懐具合は良くなかった。
 
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典型的な現代のテキサスの牧場、小国より広い牧場も幾つかある(写真:ナコドチェスHP)
 
こうして、ザ・オールド300と呼ばれた、最初のアングロ移民は、ブラソス河の西岸のサン・フェリペ・デ・オースティン近辺に入植した。オースティンもここに住居を構えた。(アラモの戦いとテキサス独立戦争(3)をご参照ください)
なお、サン・フェリペの1828年当時の人口は、200人、三軒の雑貨屋、二軒の酒場、ホテル、鍛冶屋が一軒ずつ、と4050軒の小住宅があった。1835年には、テキサス最初の郵便局が設置され、これもテキサス初の新聞が当所で発行された。しかし、サンフェリッペには、一時テキサス州臨時政府が置かれたため、メキシコ軍の攻撃を恐れた、入植者たちは1836年、町を焼いて入植地を捨てた。オースティンが米国に出張中の出来事だった。
 
当時のテキサスは、各地にスペイン人神父による、カトリック伝道所が存在した他、メキシコ人、アングロ人の小規模の入植地があった。そして、この地はコマンチェ、アパッチェ、チェロキー、ウイチタ、クアウイルテカンス等の部族が支配する土地だった。
 
 これ等のインディアンズの攻撃に対する自衛手段として、オースティンは小規模の自衛部隊を組織していたが、183510月、ゴンサレス村に集まった入植者たちは、テキサス義勇軍を結成、義勇兵の互選によって、オースティンが司令官に選出された。
 そして入植者代表者会議に出席するために、ゴンサレス村に来ていた参会者の多くは、会議開始を待たずに、サン・アントニオへ退却したメキシコ軍を追跡する義勇軍に投じて、アラモ要塞包囲戦に参戦した。この様に当時各地で起こった駐留メキシコ軍とテキサス住民との戦闘は、テキサス側が優勢だった。
 
                     
二つの軍隊
 11月初頭の代表者会議は、テキサス州知事と副知事の選出後、テキサス正規軍を結成することを決定、サム・ヒューストンを初代司令官に任命した。
 会議前に結成された義勇軍は、ヒューストン軍の傘下には入らないことが確認された。こうして二組の軍隊が出来たことになるが、この義勇軍が現在も存続する、Texas Rangersの原型なのである。
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 左)1845年頃のテキサス・レンジャーズ     右)バッジはメキシコ金貨、銀貨を使用している
(写真:Texas Rangers, Wikipedia, the free encyclopedia
 
新しい正規軍は、2,500の兵員を持つことになり、徴募の条件として、二年の兵役を務めると、一定の土地が支給されることになっていた。一方義勇軍は文字通り、無給のボランティアの兵士で構成され、兵役期間の決まりもなかった。
 さて、代表者会議のメンバー全員は、州理事会の理事に横すべりして、州内閣閣僚或いは州会議員のような役割を果たしたのだが、当初から混乱が続いた。 
この時期、ヒューストンは「対インディアンズ問題高級委員」に任命された。これは、メキシコと戦うに際して、8年間もチェロキー族と一緒に生活した、ヒューストンが持つインディアン部族とのコネによって、彼らの支持(少なくとも中立)を得ようとしたものだった。
 
 12月に入ると、メキシコ側の国境の町・マタモロスへの軍隊派遣の件で、大混乱が起きた。詳細は省くが、派遣軍のトップに任命された、ジョンソンがメキシコ軍を敗退させた、義勇軍の将兵200名と多くの装備を割いて、マタモロスに向かったのである。アラモには、ネイル中佐以下わずか100名の義勇兵しか残らなかった。
 困惑したネイルはヒューストンに兵力の増強を要請する手紙を送った。ヒューストンは、書面をスミス知事に転送した際、ジョンソンが派遣軍司令官に任命された時の理事会は定数を満たしていなかったため、任命は無効である、と指摘した。その結果、知事は理事会の解散を宣言、これに怒った理事会は、スミス知事を弾劾、罷免を決議して、臨時知事を任命したのである。しかし、知事が理事会を解散させ、理事会が知事を罷免する権限は共になかった。
 
 18362月から3月に掛けてアラモがメキシコの大軍に包囲されていた大事な時期、二人の知事のどちらが正当な知事が分からない、と言う混乱状態が続いたのである。
同じ頃、サンターナの軍勢はアメリカ人移住者をテキサスから追い出そうと、アラモを目指して北上中だった。
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ワシントン・オン・ザ・ブラソスのテキサス独立宣言記念碑、この地で独立宣言が行われた
ワシントンは地図の右側の黒線そばにある (写真:ワシントン・オン・ザ・ブラソスHP)
 
では、183512月から翌年3月までの、テキサスの動きを年表風に記しておく。
12月中旬、 オースティンはテキサス仮政府のコミッショナーとして米国へ出張。
114日、ヒューストンの軍勢はゴリアに集結。2月、州北部の彼の地元・ナコド      ッチェスに移動。
119日、ジェームス・ボーイとJ・ボナンが30名の義勇兵とともにアラモに到着。
2月3日、 W.トラビスが30名の兵とアラモに到着。
2月8日、デービー・クロケットが12名のテネシー人と共にアラモに到着。
211日、ネイル中佐は、家族が病気になったため、アラモを去るに当たり、W.       トラビスを指揮官に指名した。
213日、トラビスとボーイは共同で指揮官を務めることに同意。
216日、サンターナの軍勢、リオ・グランデを渡河、テキサスに入った。
223日、サンターナ率いる2,400のメキシコ軍は、200に満たない義勇軍が立て       籠もるアラモ要塞へ攻撃開始。
31日、 ワシントン・オンザ・ブラソスに於いて、新代表者による1836年の入植       者会議が開催され、会議は「テキサスの独立宣言」を行った上、
              急 きょテキサス共和国を発足させた。
 
こうして、18363月のテキサスは、風雲急を告げる事態になったのである。
いよいよ、次回はアラモの要塞の詳細をお届けしよう。
 (続く)
 
参考文献:
San Antonio Express News [Alamo EXTRA] 175th  Anniversary 1836-2011
Consultation(Texas) Wikipedia, the free encyclopedia
Stephen F. Austin- Wikipedia, the free encyclopedia
Timeline of the Texas Revolution Wikipedia, the free encyclopedia

一笑一若 
 

メキシコ小話  「女房は見た」

 
女は仲のいい女友達に、
「うちの宿六は浮気してるらしいの。
昨夜、女と連れ立って、映画館に入るのを見たのよ」
と言った。
 
女友達: 「どうしてあんたも一緒に入らなかったのよ。そうすれば、あんたの疑いが本当かどうか、確かめられたじゃないの?」
 
「あたしは入りたかったのよ」と女は言った。
 
「だけど、あたしの連れの男が、『その映画はもう見たから』と言ったので、
他の映画を見たのよ」
 
 お後が宜しいようで。

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