アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2013年02月

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                  デイビッド・クロケット物語(10)   
         
        クロケットの悲劇、ジャクソン嫌い
 
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地図)1797年米国南西部、テネシーが北カロリーナから分離したのは、1796年。ジョージア州とミシシッピー準州はクリーク族領地だった。(Hargarett Library Rare Map Collection-Union&Expancion)
 
そもそもクロケットの政治履歴に於ける悲劇は、彼の「ジャクソン嫌い」が原因だった。表面的には、二人とも辺境出身であり、貧困家庭から身を起こして政治家になり、手を携えてテネシー西部の土地問題解決に情熱を傾けた仲であったことを考えると、二人が不和になったことは、実に意外な感がする。
父の顔を知らなかったジャクソンは、家政婦として働いた母親に育てられた。が、母親も彼が14才のとき病気で亡くなり、その後直ぐ二人の兄も病死、彼は孤児となった。その年、軍隊に伝令として入隊したジャクソンは、英軍の捕虜となっている。貧乏だったが、両親がいたクロケットはまだましだったかも知れないが、彼とて父親に叱責され、14才で家出して三年間世間の荒波にもまれたことは、すでに書いた。
 
 二人は共に貧しい入植者の土地を持つ権利を擁護して、少数の特権階級が独占した南西部のインディアン領土だった土地を、入植者にも開放させた。このようにジャクソンとクロケットは盟友と言っても良い時期もあったのである。
 
 しかし、二人が共通して持つ多くの特徴、関心事の他に、二人には無視できない大きな違いがあった。それは二人の性格の違いだった。違いが際立つ例を挙げよう。
クリーク戦争中の1813年12月、ジャクソン46才、クロケット27才のときの出来事だった。家族とクリスマスを過ごしたい、とジャクソン司令官に反抗した「義勇兵」たちの中にクロケットがいた。義勇兵・クロケット二等兵の契約期間はクリスマス前までだったので、彼にとっては当然の権利を主張しただけだった。しかしその時、決然たる態度のジャクソンに圧倒されて、クロケットは帰宅を断念させられたのだった。クロケットは尊大で貴族のように振舞う将校が大嫌いだった。
 
 孤児ジャクソンは若いころから自分はシーザー、ナポレオン、ワシントンのようなリーダーであると自認し、そのように振舞った。また彼は自分が購入できる最も高価な服を身に着け、馬も出来る限り高価な馬に乗るとともに、紳士の作法を完璧にマスターした。アグレッシブで頑固な性格から部下たちに「古いヒッコリーの木*」とあだ名をつけられた、ジャクソンは部下を引き連れて歩くときでさえ、最も高価な軍服を着用した。
彼は広大な土地の白い円柱が並び立つ大邸宅で、多数の奴隷を使用し、厩舎には多くのサラブレッドの競走馬を飼っていた。
 
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写真左)ジャクソンのあだ名となったヒッコリーの木(thehoneytreenursery.com)
写真右)ナッシュビルのジャクソン邸、(http://flicker.com/photos/82538566@n00/567517767
*ヒッコリーの日本語訳はないが、クルミ科の落葉樹で硬く、重い材質で米国ではこの木で野球のバットやステッキが作られる。また薪としてハムの燻製に使われる。
 一方、クロケットは一生、小屋か賄いつき下宿に住み、熊猟と洗い熊の捕獲で生計をたて、仕事着の鹿皮ジャケットが似合うあだ名通りの「辺境の紳士**」に過ぎなかった。
 
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写真左)サン・アントニオのラ・カンテーラ・ゴルフ・コースに生えるCane(筆者撮影)
右)復元されたD.クロケットが少年時代を過ごした自宅兼旅籠(joepayne.org)
**原語はThe Gentleman from the cane. caneは竹に似た丈の高いイネ科の植物の総称、日本語訳なし。有用植物ではないが、群生地は鳥類、昆虫の住処。転じて辺境を意味する。 
           
                          人殺しとコメディアン 
 しかし、二人の間にはそれ以上に大きな相違があった。なぜならジャクソンは人殺しとして有名だったのだ。クリーク戦争でインディアンを殺したことや、米英戦争で敵兵を殺したことではなく、彼は決闘で四人も殺している。将に彼の手は血でよごれていたのだ。 対照的にクロケットは決闘ではなく、ユーモアと自虐ネタで戦う、愉快で謙虚なコメディアンだった。彼は決闘をしたことはなく、何事においても彼自身が敗者の役を演じるのが常だった。但し、熊狩りだけは例外で、彼は自伝に一年間に105頭の熊を仕留めたと誇らしげに書いている。
彼の十人並みなところ、へまをするところが皆に好まれ、親しみを持たれた。彼の人生物語は挫折につぐ挫折で成り立っており、アラモでの挫折が最大かつ最後のものだった。
 
 一方、ジャクソンは、同胞を常に上から目線で見ていた。ジャクソンは西部の貧しい人間の権利獲得のために働いたが、彼自身は最も裕福な南部の大農園主のように暮らしていた。実のところ、「世界は、平凡な人々と奴隷を自分の子供のように扱う、彼のような英雄、大地主、愛国者によって統治されるべきである」とジャクソンは考えていた。
そして、自分自身をほとんど封建君主と見做していた。ジョン・ミーチャンが指摘したように彼は「国父」をもって任じており、彼が語り、書くことのすべてに、家父長主義的雰囲気が漂っていた。
 
 しかし、クロケットは演説にしても、服装にしても、将来のビションにしても、一人の平凡な人間のものでジャクソンとは正反対だった。そしてジャクソンの気質、性格、彼が握っていた巨大な権力及びテネシーとワシントンに於ける彼の取り巻き(クロケットは「ジャクソンの犬」と呼んだ)をクロケットは虫唾がはしるほど嫌った。そしてクロケットはそのようなジャクソンを軽蔑していたため、ウイッグ党によって大統領候補に担ぎ上げられ、反ジャクソンの広告塔として使われることをやみくもに、しかし喜々として受けいれたのだった。
 全国的な人気コメディアンであるとともに、クロケットが土地問題に関心があり、その上造詣が深かったことも、ジャクソン派の「1830年インディアン強制移住法」批判を目玉とする、ウイッグ党幹部に好都合だった。そして、南部と異なり米国北部では、ジャクソンの土地政策批判は歓迎されたのだった。
  
 大統領選予備候補になった、クロケットは異論があった「インディアン強制移住法」を含む、ジャクソン政策に猛烈な反対を唱えたため、地元では中傷され、情け容赦なき攻撃を受けた。テネシーに於いてジャクソンを攻撃することは、許されざる罪悪とされ、選挙区の大小取り混ぜすべての新聞とすべての三流弁護士がクロケット攻撃に参加した。
ジャクソンの尽力のお蔭で、小作農から自作農になれた入植者は、彼を神のごとく敬愛していたため、ジャクソンを批判するクロケットがテネシーで落選したのは当然と言えば当然だった。 
 とにかく、ジャクソンは1832年の大統領選で地滑り的大勝利を収めて、再選された。
この時代、クロケットの他にジャクソン政策を攻撃したのは、キリスト教宣教師のジェレミー・エバート師、ウイッグ党のアブラハム・リンカーン、ニュージャージー州選出のテオドール・フレリングセン上院議員くらいしかいなかった。
 そして、1835年のウイッグ党大統領候補の指名を受ける前に、先ずクロケットは1834年の連邦下院議員選に当選しなければならなかったが、敢え無く落選し、大統領への道は閉ざされた。
失意のクロケットは、「あんたたちは義足の男を選んで俺の後釜に据えたのだから、地獄へ落ちろ。俺はテキサスへ行く」と言う有名な捨て台詞を残して、テキサスへ向かった。義足の男とは、下院議員選挙で彼を破ったアダム・ハンツマンのことだった。
 
 さて、新天地テキサスに来て、ジャクソンとの悪因縁は切れたと思った、クロケットだったが、ジャクソンの影響はここでも通奏低音のように不気味に響き続き、クロケットを最後の挫折へと導くのである。
(10 )の終り
参考文献:
A Narrative of the Life of David Crockett, of the State of Tennessee, Written by himself
 LIONS  of  THE  WEST ,“‘David Crockett” Robert Morgan (Algonquin Books 2012)
 LIONS  of  THE  WEST, “Andrew Jackson” Robert Morgan (Algonquin Books 2012)

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                      デイビッド・クロケット物語(9)
           二世代かかった土地法案
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「明白なる宿命」即ち米国は太西洋岸から太平洋岸まで拡大すべきである、と言う神の意志を象徴する絵画。米国を擬人化した、Columbiaが文明を西部に導いている様を表す。『時代』を幕開けしたのが、ジャクソンだった。 1872年ジョン・ガスト画 (Manifest Destiny[ushistory.org])    
 
                                              土地問題とは?
 
政治家クロケットは南西部の土地問題に大きな関心を持って取り組んだが、成果は挙がらなかった。では、一体土地問題とは何だったのか?
合衆国独立宣言前後の18世紀後半、東部にはもはや分譲する土地はなく、あっても新移民には高価で入手不可能だった。そこで、新移民は南西部のケンタッキー、ジョージア、テネシーを目指したのである。しかし、南西部の土地にも問題はあった。大部分の土地はチェロキー、クリーク・インディアンによって支配されていた。
 19世紀に入ると、インディアンの重要な取扱い商品だった、鹿、熊等の獣皮の需要が落ち込み、白人への負債を土地で決済するインディアンが出て来た。
しかし、インディアンから白人に渡った土地の大方も西南部の大農園主及び資金力のある投機家たちの手に渡り、貧しい入植者には高値の花となった。
この間の事情は、土地に関する両者の考えの違いを含めて、デイビッド・クロケット物語(6)
 クロケットが心をくだいたもう一つの土地問題は、陸軍土地権利書/Land Office Military WARRANTの件だった。
 独立戦争時代以降、各州の軍隊は将兵に現金で給料を支払う代わりに、兵役が終了した段階で全額を土地で支払う契約をしていた。その証書が「陸軍土地権利書」だった。
しかし、権利書を所有しながら、分配する土地が枯渇したため、契約不履行になるケースが続出した。また、将校に対する兵卒の土地分配に関する不公平感、及び特権階級の横車の横行等、制度、運用の面で土地権利書は多くの問題を抱えていた。
この問題は、クロケットの選挙区である、テネシー西部で特に顕著であったため、クロケットは州会議員時代から熱心に解決策を模索していた。
 
 クロケットが州議員だった1821~23年、19才年上のジャクソンはすでにテネシー州選出の連邦上院議員だった。クリーク・インディアン戦争の賠償として、広大な土地を上下クリーク・インディアン部族から獲得、合衆国の版図を広げたジャクソンは、南部の特権階級による土地独占を嫌い、貧しい人々への土地分配に意欲を示した。
  クロケットも州会議員時代から、ジャクソンと同じく土地が必要な貧しい入植者が安価な値で土地を購入出来るよう各種の法案を提出したが、当時の政治的策謀に敗れ、一つとして実を結ばなかったのである。
 
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                     John Wesley Crockett (1807-1852)クロケットの長男、連邦下院議員、
                      (commons.wikimedia.org/wiki/File.johnwesley/crockett.jpg)

 
しかしクロケットの死後、彼の長男ジョン・ウエスリーが連邦下院議員となり、父が成立出来なかった土地法案を議会に提出、二世代かけて見事に法律として成立させたのである。父クロケットの死後5年の1841年のことだった。
 こうして西部の貧しい人々も安価な値で土地を購入出来ることになった。この快挙はアラモで戦死したデイビッド・クロケットの名声が土地法案の成立の助けになったことは言うまでもなかった。
 こうしてクロケットは死後、彼の政敵だったジャクソン大統領と並ぶ「弱者、貧しき人々の最大の英雄」となった。因みにその地価は,20年前S.オースティンが最初に開発したテキサス入植地の地価と同額の1エーカー12.5セントだった。(1エーカーは4,075平米)
 
 以上が土地問題の概要である。晩年のクロケットは大統領選予備候補として、ジャクソン大統領が成立させた「インディアン強制移住法/Indian Removal Act of 1830」を批判したが、戦争の賠償として獲得したクリーク族の土地とは異なり、この制度は一応インディアンに土地代金を支払い、代替地を提供するものだった。
同時に、この制度は凶暴なインディアンをミシシッピ河の西方に追いやって、住民の安全を確保する結果となり、南西部の住民からは熱狂的に歓迎された。
 この動きに続く1845年の新聞記者・ジョン・オサリバンの「明白なる宿命/Manifest Destiny」の出版によって白人の西部進出は正当化されて行ったのである。
 さて、次回はクロケットの謎の一つである「何故、ジャクソンを嫌ったのか?」を解き明かしたい。ジャクソンとは第7代大統領のことである。この件はウォルト・ディズニーもジョン・ウエインも『絵』にはならないので映画では省略したのだろうが、実はなかなか面白いのだ。
(9)の終り
参考文献:
A Narrative of the Life of David Crockett, of the State of Tennessee, Written by himself
 LIONS  of  THE  WEST ,“‘David Crockett” Robert Morgan (Algonquin Books 2012)
 LIONS  of  THE  WEST, “Andrew Jackson” Robert Morgan (Algonquin Books 2012)

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          メキシコ小話 「最後の支払い」 
         
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                                           元妻と娘(es-us.org.yahoo.com)
 男の別れた妻と暮らしている娘のマルガリッタは今日、18才になった。男が元妻と約束した、娘の養育費の支払いは今月限りで終わる。
 
 そこで、今月は銀行振り込みではなく、「お前の顔が見たいから、最後の支払いは小切手で払うから、取りにこいよ」
と男は娘に電話した。
 
 現れた娘に男は、
「君のママに『これが最後の支払いだ』と言っておくれ。
そしてそのとき、君のママがどんな顔をするか、後でそっと教えてくれな」と頼んだ。
 
 小切手を持って出ていく娘を見送りながら、男はクソばば~の元妻がその時どんな顔をするかを、あれこれ想像して、悪魔のように醜い笑いを浮かべていた。
 
 翌日娘は、男が頼んだ報告をしに戻って来た。
 マルガリッタは言った。「ママは長い間、仕送りありがとう。
本当のパパじゃないのにね、と言ってたわ」
 
 お後がよろしいようで。

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                            デイビッド・クロケット物語(8)
                  
ミンズの虐殺とクリーク戦争
               
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 1814年,英軍による首都ワシントンの焼き打ち (ja.wikipedia.org)
 
クリーク戦争(1813~14)はアメリカ白人対アメリカ・インディアンの武力衝突としては最大のものだった。アメリカは1812に勃発した米英戦争で英国と交戦中だったが、クリーク戦争は別個の戦争だった。米英戦争(1812年戦争が正式名称)はスペイン、フランスの支配する諸国間とのアメリカ商船隊の航海を制限する政策を採用して、アメリカの国益に損害を与えた英国への報復が、開戦の主たる理由だった。しかし、連邦政府の開戦理由はそうであったが、南西部の政治家と住民にとっては同地方の残存英国勢力とインディアンの結びつきを絶つことも開戦の理由になり得るものだった。
 
  英国は1812年以前からインディアン勢力を利用して、アメリカに報復しようとしていた。これを阻止することが米英開戦の従なる理由だった。英国は以前から一部のインディアンに武器、弾薬を提供して、アメリカを攻撃するよう仕向けていた。1783年に調印された独立戦争の和平条約によって、合衆国領土から撤退する、と約束したにも関わらず、英国は五大湖地方等に兵力を温存していた。そして北はカナダ、南はメキシコ湾までのアメリカ人入植地を襲撃する、組織的攻撃(武器弾薬は英国が用意し、実戦はインディアンが担当する共同作戦)の準備を着々と進めていた。インディアン側のリーダーは北方のシャウ二ー族・テクムセー、クリーク族・レッド・イーグル、大きい戦士らの酋長だった。
 アメリカの英国への宣戦布告は、辺境のアメリカ人の間に不安を呼び起すとともに、熱烈なる愛国心を燃え挙げさせた。しかし、好戦的なインディアン、カナダ駐屯の英軍、大西洋上の英海軍,フロリダのスペイン軍の存在が入植者たちの恐怖心をあおった。
一部のインディアンは白人の土地に対する渇望をあざけり笑って、殺害した白人の口の中に「土」を詰め込んだりして、敵意を露わにした。そして英国が首都ワシントンを焼き打ちにし、
米軍のカナダ進出が阻止された以外は米英戦争に目立った戦闘はなかった。
 
 一方、クリーク戦争のジャクソンの対戦相手になるクリークは、マスコギアン・インディアン連合体の主力部族であり、連合体の勢力圏はフロリダ、ジョージア、アラバマとミシシッピ流域方面に及んだ。そして上部、下部クリーク部族に二分していたクリーク部族の主要居住地域(アメリカ人はNationと呼んでいた)はジョージアとアラバマだった。そしてこの地こそが前号で述べた、「肥沃な土地に清流が流れ,絵のように美しいなだらかな丘が連なる地」であり、白人たちにとって理想的、垂涎の的の土地だった。この広大な土地に住む、上部クリークは反アメリカ勢力となり、下部クリーク部族はチェロキー、チョクトー部族とともにアメリカ・ジャクソン軍の同盟軍になった。上・下を足してもクリーク部族の人口は1.5から2万人に過ぎなかったが、シャウ二―族酋長兼予言者のテクムセーを初めとするインディアン・リーダーたちが全国の諸部族に反米蜂起を扇動して廻っていた。 
 しかし、1813年、上部、下部クリーク間で勃発した内乱が、クリークを初めとするインディアン部族間の同盟を決裂させるまでに拡大した。
 
 以下はクリーク部族の内乱の引き金となり、ミンズ虐殺を引き起したあげく、クリーク戦争を誘発させた、白人一家殺人事件以後の白人対インディアン紛争の歴史である。つまりミンズ虐殺がインディアンの将来を決める分水嶺となり、インディアン強制移住法(Indian removal act)成立に繋がって行ったのである。
 
                     ミンズの虐殺
            
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 ミンズ砦の虐殺 テネシー州政府蔵 (tennessee.gov)
 
小さい戦士と呼ばれる上部クリークの一酋長が北方のシャウニー族を訪れての帰りに、チカソー族から「上部クリークとアメリカ軍との戦闘がいよいよ始まった」と虚偽の情報が告げられた。これを聞いて喜び勇んだ小さい戦士は、辺境に住む白人、7人家族を血祭りに上げた。この事実を知った、連邦政府のインディアン担当官(Indian agent)のベンジャミン・ホーキンズは、殺人犯たちの処罰を要求したところ、クリーク部族会議の同意を得たのである。
 インディアン担当官のホーキンズはJ・ワシントン大統領から任命された、インディアン政策を担当する高官だった。ホーキンズは白人が報復する道は選ばずに、インディアンの法律を尊重したのである。ホーキンズのオフィスはジョージアにあり、[His sketches of the Creek Country in The years 1798 &1799]と言う著書があるほどのインディアン文化の理解者だった。
 
               
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              インディアン担当官 B.ホーキンズ画像 (Wikipedia.org/wiki/File NC_congress/)
 
直ちに殺人犯を処刑すべく、クリーク部族会議から死刑執行人たちが派遣された。彼らが任務を達成するには、殺人犯と戦わねばならない掟があった。ところが殺人犯である酋長・小さい戦士と部下のレッド・スティック軍団の兵士たちは、反対に9名の死刑執行人たちを返り討ちにして殺害、その上白人と親しくしていた数部落を焼き打ちにし、多数の家畜を殺害したのである。レッド・スティックとは上部クリーク内の一軍団でレッド・イーグル酋長が総指揮を執り、兵士は銃と弓矢の他に「赤いこん棒」を携えて戦闘にのぞむため、そう呼ばれていた。
 
 さてこの仕打ちを怒った下部クリーク族、白人、混血白人たちによる、凶悪なレッド・スティックに対する反撃がアラバマのバーント・コーンで決行された。下部クリーク族のグループは善戦し、レッド・スティックを敗走させた。戦闘後、下部クリーク族、白人たちはレッド・スティックの報復を恐れて、アラバマ南部の大商人サムエル・ミンズの砦のような本拠に避難した。ここは100名の市民兵によって守られており、女性と子供を含む白人450名以上と300名の奴隷が滞在していた。
 数日後の真昼間、英国人を父とする、レッド・イーグル(本名William Weatherford)酋長が率いる、千人余のクリーク・レッド・スティック軍団がミンズを急襲、砦にいたほぼ全員を虐殺した。ミンズ砦の守備隊長は弁護士のビースリー小佐だったが、軍事経験に乏しく、レッド・スティックを甘く見ていた上に、隊の規律が乱れ、十数人の市民兵が敵前逃亡をしたほどだった。但し、一部の奴隷は使役する目的で、クリーク部落へ連行されて行った。数日後、惨劇現場を訪れたケネディー少佐によると、死者は553名に達した。死者の内訳は、白人入植者と家族、下部クリーク族、市民兵と奴隷だった。
 顔面と体中を赤と黒に塗って、頭に羽飾りを付けた、戦闘装束のレッド・スティックの中には真っ裸の戦士も多かった。彼らは女性から幼児まで虐殺した後、遺体の耳と鼻を斬り取り、頭皮を剥いで戦利品として持ち帰った。 遺体は砦の内庭に遺棄され、燃え落ちた建物の灰の中には多数の人骨が混じっていた。
 この非道な残虐行為のニュースは瞬く間に辺境から全米に伝わって行った。
ミンズで兵士のみならず、婦女子を含む民間人が多数殺害されたことにより、事件はもはやクリーク族の内乱ではなく、インディアンのアメリカ合衆国への攻撃とみなされた。
ミンズの大虐殺で状況は大きく変わり、国土の南北でイギリスと戦争中だったアメリカに南西部の住民を巻き込んだ危機的情勢が加わったのである。
特に虐殺が起こったアラバマの北方に位置する、テネシーの住民は大きな衝撃を受けた。
               
                                              クリーク戦争
     
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         クリーク戦争敗北後、ジャクソンに降伏したレッド・イーグルことW.ウエザーフォード。
   ジャクソンは彼を助命した。(
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Jackson_and_weatherford.jpg)
 
直ちに連邦政府の号令のもと、テネシー州市民軍のジャクソン大佐が指揮を執って義勇兵が召集され、北部からの正規軍と共にクリーク討伐に出立した。数年前、インディアンに祖父母を殺害されていた、クロケットは反対する妻を「この闘いは家族を守るためなのだ」と説得し、義勇兵に応募してジャクソン軍に投じた。これが政敵二人の最初の接点だった。
 この戦闘で、付近の地理に詳しいクロケットは、斥候兵として大活躍している。そして、1814年3月27日、ジャクソン軍と下部クリーク、チェロキ、チョクトー部族連合軍はアラバマのホースシュー・ベンドにおいて、レッド・スティック軍団を中心とする、上部クリーク部族を破って、クリーク戦争はジャクソンとアメリカ連合軍の勝利と帰した。
ジャクソン側の戦力は7000、戦死者584、対する上部クリークの戦力は4000、戦死者は1597だった。
 戦争の賠償として、アンドリュー・ジャクソン大佐はレッド・スティックが属する上部クリークは勿論、同盟軍として戦った下部クリーク部族にも合計2000万エーカーの土地を請求した。
その結果、ジョージア南部とアラバマ中部の2000万エーカーの土地がアメリカ領土となった。因みに1エーカーは4,047平米である。
土地を白人に引き渡したクリーク族は1830年、「インディアン強制移住法」の成立により、オクラホマに移住させられた。彼らが住んだ地域は後に、彼らの連合体の名称である、マスコギー郡、マスコギー市となり、2010年の人口は39,000である。 
 クリーク戦争の勝利により、ジャクソン大佐は、国民的英雄となり少将に昇進した。
彼が獲得した、2000万エーカーの土地は土地を必要とする白人入植者に夢と希望を与えたが、
種々の理由により貧しい入植者が安い値段で土地を購入出来るようになったのは、クロケットの死後五年の1841年、父の遺志を継いだ彼の長男・ウエスリーが下院議員として提出した土地法案成立によってだった。
こうしてクロケットは死後、彼の古い政敵・ジャクソンと並んで、貧しい庶民の英雄となった。
(8)の終り
参考文献:
             A Narrative of the Life of David Crockett, of the State of Tennessee, Written by himself
              LIONS  of  THE  WEST ,“‘David Crockett” Robert Morgan (Algonquin Books 2012)
               LIONS  of  THE  WEST, “Andrew Jackson” Robert Morgan (Algonquin Books 2012)
      “Creek War”  from Wikipedia, the free encyclopedia

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           「ゴルフがセックスより優れている10の理由」
 
米国CBS-TVで20年間続いている番組「Late Show with David Letterman」の主人役のレターマンが創作した秀逸な小話を友人が送ってくれました。
アメリカ小話の読者の皆さんにお届けしたい、と早速翻訳し始めたのですが、私の語学力では歯が立ちませんでした。
 このままボツにするには余りにもったいない秀逸小話なので、原文のままお届けします。
たまには、英語でJokeを味合って見るのも、乙なもんじゃござんせんか?
では、一笑一若・アメリカ小話をE N J O Y!!! 
                              
                                                 アメリカ小話
David Letterman’s
Top 10 Reasons why Golf is better than Sex …
 
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                          自分の番組で熱演中のレターマン (wikipedia.org/wiki/ David Letterman)
 
No.10   A below par performance is considered damn good.
No.9     You can stop in the middle and have a cheeseburger and a couple of beers.
No.8     It’s much easier to find the sweet spot.
No.7     Foursomes are encouraged.
No.6     You can still make money doing it as a senior.
No.5     Three times a day is possible.
No.4     Your partner doesn’t hire a lawyer if you play with someone else.
No.3     If you live in Florida, you can do it almost every day.
No.2     You don’t have to cuddle with your partner when you’re finished.
No.1     And the NUMBER ONE reason why golf is better than sex……
            When your equipment gets old you can replace it ! 
       お後がよろしいようで…… 

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