アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2013年05月

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皇居の奉仕でご先祖に会えた(最終回)
 
ブラジル日本会議・第7回皇居勤労奉仕 第三部
  皇居勤労奉仕は、昭和20年5月に空襲で焼失した宮殿の焼け跡を整理するため、同年12月に宮城県内の有志が勤労奉仕を申し出たことが始まりであり、それ以降、全国の有志による勤労奉仕が行われています。ブラジルからの参加は今回で七回目にあたります。
この稿は日本学生海外移住連盟OB(三重大卒)でもある、徳力・第7回皇居勤労奉仕団団長の報告・第三部、最終回にあたります。「アメリカ便り」に貴重な皇居勤労奉仕のレポート掲載の機会を与えてくださった徳力氏に深甚なる感謝の意を表します。なお、本稿の写真は徳力氏と石田幸作氏の提供によるものです。
 
       徳力啓三(ブラジル日本会議・第7回皇居勤労奉仕団団長)
4日目は赤坂御所の掃除でした。皇居より西の方、明治神宮の手前にあたるところにあります。皇太子殿下がお住まいになっているところです。赤坂御苑には、皇太子殿下の東宮御所があり、他に4宮家-寛仁親王、秋篠宮、三笠宮、高円宮のご邸宅があります。お堀で囲まれてはいませんが、その面積は50ヘクタールもあるそうです。年に二回、春と夏には園遊会が開かれるところです。丁度1週間後の419日には春の園遊会が行われるので、お池の周りの道路の清掃をすることになりました。
 
 
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赤坂御用地に於ける記念撮影
 皇居と同じで、休憩所から作業場までかなりの道程があり、てくてくと歩きます。作業に入る前に、赤坂御所でも記念写真を撮りました。園遊会の会場をバックに、26名の笑顔が並びました。広大な面積ですから作業場になかなか着かない。あちこちに業者が入って、テントを建てたり、駐車場の整備をしたり、雷の落ちた木を整理したり、作業用の車輌も次々にはいってきます。そんな中での作業でした。
 
 14.00には皇太子殿下の「お会釈」がありました。東宮御所の前庭に奉仕団が整列し、お待ち申し上げていると、皇太子殿下お一人でお出ましになりました。皇太子妃殿下の雅子さまは体調不良でお出ましになられませんでした。玄関先よりお出ましになった殿下は、そのまま奉仕団の各グループの御前に御立ちになりました。挨拶をお受けになり、一言二言言葉を交わされ、次々に移ってゆかれます。万歳三唱を受けられ5分ほどで玄関に戻られました。昨日とは打って変わった簡素な「お会釈」でありました。
 
 再び作業に戻り、これが本当に最後のお勤め、皆頑張りました。3時半作業終了。4時には赤坂離宮より退出となりました。皇居の勤労奉仕はこれですべて完了しました。
 
 ホテルに戻って今夜のお別れ夕食会の準備です。4日間を共にしたオイスカの6名の方、名取市の海岸林再生の会のみなさん4名、それにブラジル大好きの日本在住のブラジル組3名の方とは、もう滅多なことではお会い出来ないかもしれません。浜松の駅の近く、ホテルからのシャットルバスがある便利なところ、アルファインテルの千田さんが案内をしてくれました。
 呑み助組みとそうでない組にわけたところ、呑み助組は1/3、だのにそうでない組は生ビールを殆ど全員が註文、呑み助組は、お酒か焼酎。たちまち賑やかになり、勤労奉仕を熱く語り合ったものです。
 
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四日間一緒に作業した、日本赤十字社の皆さん
 奉仕団解散の日になりました。413日土曜日。大部分の団員はホテルをチェックアップ、荷物をもってバスに乗り込みます。今日は、明治神宮を参拝です。日本会議の松村事務局長もホテルまで来て下さり、明治神宮へ案内くださり、正式参拝の手続きをして下さいました。
 
明治神宮は山の手線の原宿の近く、皇居の西側にあり、赤坂離宮を真ん中にして明治神宮外苑、明治神宮内苑と連なっています。外国に侵略されることなく日本を近代国家のひとつに育て上げられた明治天皇・昭憲皇太后をお祀りした神宮です。緑溢れる境内は沢山の参拝客で一杯でした。バスを降りて直ぐ巨大な鳥居がありました。日本一の大きさで、高さ12メートル、笠木が17メートルもあるそうです。奉仕団は団長を先頭に、内陣奥深くまで連れてゆかれました。献納したブラジル有機コーヒーが三宝に乗せられ鎮座していました。神職の打ち振る御幣を受け、指示にしたがい玉ぐしを奉納、22拍手1拝します。団員の皆様が後ろに控えて下さっているので大安心。見事に拍手を合わせてくれました。
次にお神楽殿に廻り、お神楽の奉納です。伊勢神宮でお神楽の奉納は見たことがありますが、施主になったことはなく、初めての経験でした。ただ座っているだけですから、楽なものですが、日本の神道のなんたるものかを知らず、知ろうともしなかった自分を見つめておりました。参拝のあと、明治神宮の事務局長が挨拶に来られ、中庭で参拝記念の写真を撮らせていただきました。やっぱり皇居の勤労奉仕に対する敬意というものでしょうか。身近に日本の神道を感じることが出来ました。
 
そして、このあと明治神宮外苑に廻りました。ここには聖徳記念絵画館を中心として明治神宮野球場、国立競技場や明治記念館などがあります。私たち奉仕団は絵画館に案内されました。ここには明治天皇のご在世中のご事跡を、当代一流の画家の手によって日本画、洋画それぞれ40面、合計80面の壁画に表現され、展示されています。とても1時間では見て廻れないほどの重量感がありました。近代日本の重要な事跡が、くまなく示されています。日本人なれば、ここに来て、正しい歴史を知るべきです。皇居でも感じたのですが、わずか100年前に何が起こったのか知ろうともしない人は日本人と呼ぶに値しないのではないでしょうか。ブラジルに住んでいるとはいえ、あまりにも日本の歴史を知らなさすぎたと思います。皇室を中心とした日本の歴史こそ、世界に誇れる人類社会の見本ではないでしょうか。
 
 昼食は日本会議・千葉が主催して下さいました。今年の2月に來伯され、交流を持つ機会に恵まれました。今度は日本でお会いすることになりました。昨日赤坂御所から見えたホテル・ニューオオタニの17階ラウンジが会場でした。ブラジル組全員13名が揃って招待を受けました。日本会議・千葉のお方は來伯された7名の他に女性の強力な会員の方が3名加わり、心温まる応対をしてくださいました。江口会長より、待望の安部政権は、日本をきっとすばらしい国に生まれ変わらせ、若者に夢を与えられるような国になると明るく語って聞かせてくださいました。21世紀の世界は日本より発信する新しい思想で導かれるようになるであろうとも示唆されました。先生は首相に近いところに居られるお方だけに、非常に力強い説得でありました。約2時間、景色のよい回転ラウンジでおいしいものを沢山一杯頂きました。
この昼食会でもって、奉仕団の解団式となりました。団員はそこより東京駅に向かい、それぞれの故郷に或いは観光に出かけてゆくことになります。
あわただしいお別れでした。奉仕団の皆さんはたいへん協力的な方ばかりでした。ろくな挨拶を交わす暇もなく、東京駅前のバス停で短く「さよなら」といいつつ、それぞれの目的地に向かって散らばってゆきました。これで奉仕団の一部始終おわります。
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「私たちの40年」の会主催・ブラジル皇居奉仕団歓迎会、49日、於:両国・霧島 (撮影・石田幸作)
前列左から、石田雅子(奉仕)、山本、森若、徳力啓三(奉仕団長)、富田
中列左から、杉浦和子(奉仕)、徳力洋子(奉仕)
後列左から、石田圭一(奉仕)、伊豆山(在ブラジル)、杉浦、工藤、五味、石田幸作(奉仕) 敬称略
 
最後に一言、私は、皇居でご先祖様には会うことはできませんでした。でも、ご先祖のご先祖、そのズーと前の日本の祖先に会ったような気がしています。たぶん日本人なら、誰もが感じることであると思うのですが、皇居にお住まいになっているお方をして、現代のこの今という時に繋いで下さっているのではないでしょうか。昭和、大正、明治の緒帝と遡り、第33代推古天皇までは歴史学者もはっきりと認める血筋、第10代崇神天皇辺りから初代神武天皇までは神話の世界と云われています。が今があって、初代がないという歴史はありません。奈良にいけば厳然と神武天皇をおまつりした橿原神宮がある。その上には日本を生み育てた天照大神が伊勢神宮におわします。そこまでさかのぼると私ら如き下々までが万世一系の中に組み込まれてしまう。日本国と言うユーラシア大陸の東の果ての島国の中では、当然起こるべくして起こる血統の為さしむるところと私には思えます。
 
世界で唯一、われ等日本人は現代の今も日本国に生きています。お伊勢さまが見守る中、しっかりと生きています。天皇陛下も私ら庶民も同じように生きています。皇居の盆栽が生き続けているように、われ等も生き続けます。万世一系の天皇家はやっぱり私らのご先祖のご先祖と繋がっています。従って私はこの度の「皇居の奉仕」でご先祖に会ったことになります。間違いなく私はご先祖に会ったと思います。日本人として旅をするなら、世界中のどんな世界遺産を訪ねるより、どのような観光地にも勝る、より身近な「皇居」を訪ねるべきと思います。
 
 奉仕団解散の後、女房と関西の友人を訪ねた。吉野の桜を目掛けたが、桜は散ってしまい明日香に廻った。明日香の駅の次の駅が橿原(かしはら)駅であった。私の故郷は、松阪であり、子供のころより橿原神宮のことは聞いていたが、参拝したことはなかった。偶然ながらこうして初代天皇である神武天皇をおまつりしている橿原神宮にお参り出来た。また故郷松阪には2日の滞在予定であり、時間的にも無理だし、観光シーズンかつ遷宮が近いため、大変な混雑で、車で内宮にいくのは無理だと言う。それでもねばって、早朝の可能性をきいた。早朝参拝なら混雑はなく、松阪から25km、車で30分の道程だ。朝方4時に起き出し出発、小雨が降る中、玉砂利を踏んで内宮に参拝した。10月にはご遷宮がある。20年ごとに立て替える神殿はもう出来上がっていた。あたらしい日本がそこからきっと生まれる。朝もやの中、光り輝く金色の堅魚木(かつおぎ)が燦然と黄金色に輝いていたのが印象的であった。 
                    おわり
 

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皇居の奉仕でご先祖に会えた
 
ブラジル日本会議・第7回皇居勤労奉仕 第二部
徳力啓三(ブラジル日本会議・第7回皇居勤労奉仕団団長)
 
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東京滞在中の徳力啓三、洋子ご夫妻 
一日目の午前中の作業は、結局宮殿まわりの観光と仕事の説明に始終した。11時半には窓明館に戻るべく隊列を整え、点呼する。一人でも足らぬとどこで迷ったか分からなくなるからである。休憩所に戻ってお弁当となる。勿論自前で、旅行社が皇居外より仕出してくれている。作業場に行って戻って2km3kmは歩く。昼から又作業場まで往復すると2kmから3km歩く。作業は簡単であるが、すべて足を使って移動する。夕方4時に桔梗門を出るころには7から10km位は歩いている。平均すれば12000歩から15000歩に達する。
多いときには最大20000歩にもなると職員さんから注意を受けていたのを思い出したが、実際作業自体より、歩くことがお年寄りにとってはちょっとつらい。奉仕団の参加条件が75才とされているのも頷ける。何しろ皇居は広い。お堀まで入れると全面積は120ヘクタールもある。ブラジル式にいうと50アルケールであり、FAZENDA(大農園)の面積に匹敵する。世界一の無冠の皇帝のお住まいは広く、隅々まで美しく、静謐である。自然の美と人工の美が調和した皇居の見事さは日本の誇りである。奉仕団は隅々までたっぷりと見学することが出来、その素晴らしさを肌で感じることができる。
 
午後はちょっとだけ仕事をした。宮殿の中庭の掃除である。天皇陛下が執務されるお部屋の傍の庭園である。充分手入れの行き届いたお庭であるが、庭石伝いに苔が出ていたり、芝の中に芝以外の植物が入り込んでいたりする。
また八重桜の花びらが吹きさらされていたりしている。何かしたがっている26人の奉仕団の面々は、係りの人の合図待って、それはそれは熱心に作業を開始する。誰もしゃべらない。黙々と小さな鎌を動かす人、竹箒でもって落ち葉を掃く人、もっこをもって収納をはかる人、それは見事に、たちまちにして、庭園の掃除は終わる。家では掃除などやったことのない人も、皇居にくると熱心にやるものだ。そこがまたなんともいえぬ奉仕ではないか。小1時間で終わった庭掃除の後、天皇皇后両陛下のみが使われる車寄せに繋がる道路の清掃を行った。力の余っている26名は我先に竹箒を振り回し、突進する。100メートルほどの道路はたちまちきれいになってしまった。
3時半には整列、点呼、掃除道具をリヤカーに乗せて、意気揚々と窓明館に向かって進む。軽い疲労と充実した一日を振り返りながら歩く。4時きっかり、桔梗門から退出、第1日が終わった。
 
 2日目は皇居の東御苑が作業場であった。ここは江戸城時代に本丸、奥の院、二の丸、三の丸の在ったところである。一般に開放されており、外人観光客が沢山入園していた。彼らはカメラを持って、めずらしい生き物であるかのごとく奉仕団を撮る。めずらしい生き物たちは手を振って応える。それにしても観光する方はカメラは自由に使えるが、奉仕団はカメラはご法度。係りの人に聞いてみたが、奉仕団はカメラは使わないと言う約束だから駄目という。駄目なものは駄目。やっぱり「これが生きている証拠」となんとなく納得した自分がおかしくて、大様に笑って済ませたのも皇居のせいか。
いつもの自分と違う自分がいたように思える。
 
 東御苑は1968年に皇居の付属庭園として完成したもので、比較的新しい。
21ヘクタールの広さのお庭である。武蔵野の多様な樹木を入れた雑木林がある。30余年前に植え始めたものらしいが、武蔵野を彷彿とさせる景観となっている。昭和天皇が江戸時代の景色を再現し、国民の皆さんに見てもらおうと企画されたと聞いた。果樹古品種園には、大昔の日本のりんごやみかんの木が植わっていたし、二の丸庭園の続きにある江戸時代の菖蒲園跡には、沢山の品種の菖蒲が植えられていた。椿園、竹林、お茶畑、バラ園、多種類の桜などなど皇居ならではの小植物園が揃っているのもうれしい。
 
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                 皇居の航空写真、右下に二重橋が見える
東御苑には本丸跡がある。天主台跡に登ると北桔橋門が見える。地下鉄竹橋駅より東御苑へ入る北口である。大奥跡が天主台の下に見え、大奥跡の手前に本丸跡の大芝生が広がる。赤穂浪士の話で有名な松の廊下は本丸の左手辺りにあり、ここにいると300年前の物語が脳裏を掠める。今日のお掃除は桃華楽堂と楽部の周辺のお庭と道路をきれいにすることであった。雅楽の音色が微かに聞こえる雰囲気の中で、まずは道路にたっぷり積もっている落ち葉の整理であった。今日の作業はブラジル組の他に、埼玉県より来ていた50人位の団体と同じところを一緒に作業したために、彼らは庭園の中に積もった落ち葉拾いに廻った。私たちが作業していると、観光客が続々と通り過ぎてゆき、中には声を掛けてくれる人もいた。
 
 午後もまた同じ作業場所に戻り、それぞれの持ち場を心をこめて清掃した。
午前中正味1時間半、午後は1時間ちょっと、皇居の中にいる時間は8時間だから、昼食に1時間半としても、観光と待ち時間と歩いている時間で片道あたり大よそ一時間、朝昼2回の往復で4時間ということになろうか。世の中の苦労をすっかり忘れて、奉仕作業に没頭する。健康そのもの、人生最大の安穏さである。大船に乗った気持ちで、気持ちよく過ごせる。初めての経験だが皇居の中で何に焦るでもなく、何にいらだつ訳でもなく、実にゆったりした気分を味わうことが出来た。奉仕団の皆さんも皆んなが同じ気分ではなかったにせよ、大なり小なり、日本の文化の香りを腹一杯吸い込んでいたと思う。又どこに行っても見ることの出来ない日本の歴史を垣間見ることが出来た一日であった。
私たちにとっては2日目の作業が終ったところであるが、月曜日から奉仕に入っていた4グループは、皇居での3日の作業は終わり、明日は赤坂御所での作業、私たち残った4グループはもう一日皇居での作業をするためこれでお別れとなりました。
 
 411日木曜日、奉仕3日目。今日は天皇皇后陛下のお住まいのある御所周りでの作業、奉仕団の休息所から一番遠く、深い森の中を長く続いて歩きました。天皇陛下の個人的な安息の場であり、天皇陛下の祈りの場でもあるところです。賢所や生物研究所、御田、繭の飼育所、などが森の中に佇んでいます。私たちの作業は沢山の盆栽が管理されているところの雑草取りでした。いままでみたこともない巨大な盆栽がありました。最初に見たのは380年ほどもたった黒松の巨大盆栽でした。それに驚いていると更におおきな盆栽がありました。鉢の大きさが高さ1メートル余、直径1.5メートルもの大きさで、樹高2メートル、幹の太さが30センチ、張り出した枝は3メートルもの大きさ、総重量1300kgの盆栽なんて聞いたことさえありません。たまげた大きさでした。こんなお化けのような盆栽がいくつも並んでいるのです。一番古い木は600年も経っているというから驚きを越えます。
 
 皆で盆栽園の草取りをしながら考えました。いくつもの戦争を乗り越え、いくつもの危機を乗り越えこの盆栽たちは生き続けているのです。皇室の歴史は神武天皇以来2673年と聞きますが、何が起ころうとも長く生き続けるということが、日本文化の真髄なんでしょうか。何もかも受け入れる、その上で受け入れたものを肥やしにして又延びてゆく、それが日本の歴史なのでしょう。驚くべき生命の強靭さがそこに見て取れます。奉仕を通じて何か大きなものを頂いたような気分になりました。
 
 午後2時から「お会釈」の時間です。昼休みを少し延長して1時半には宮内庁の直ぐ横にある蓮池参集所に4グループの奉仕団が集まりました。奉仕団係りの職員より「お会釈」の式順を教わります。壁際に4列横隊に並び、団長がその前に一歩進んで立ちます。天皇皇后陛下がお着きになったら、深々とお辞儀をすることから始まります。天皇皇后陛下が団長の前に御立ちになられたら、団長はどこから来たか、グループは何人であるか自己紹介をすることと教えられます。余分のことは言わないようにとの注意もありました。団長経験者のOISCAの副理事長の渡部忠氏の助言では「ブラジルから参りました。ブラジル日本会議の第7回皇居の勤労奉仕団でございます。今回はオイスカと宮城県名取市の海岸林再生の会の皆様と一緒に、奉仕させて頂いております」といおうという提案があった。実際には、もう少し詳しくブラジルからは13名が来ておりますと付け加えたように記憶する。うち3名はパラナ州からですといい足したら、皇后さまが、「私たちもパラナにいきましたね」と陛下にいわれた。「副団長の谷口さんはパラナからです」と私。両陛下は1997年の移民90周年祭のことを想いおこされた様子で谷口さんに質問された。そこで出たのが、「おたく・・・」発言。あとで団員さん同志が、びっくりするやら、笑うやら。両陛下は何もおっしゃられず、おみすごしなされました。4つのグループを廻られた後、両陛下は「お会釈団」の前に戻り御立ちになった。団長4人が両陛下の御前に進み、私が代表して「天皇陛下、皇后陛下、ばんざーい」と大声で先導、続いて団員が唱和、「ばんざーい」「ばんざーい」と三唱した。大感激の一瞬でありました。
 
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勤労奉仕の大役を果たして、リラックスした様子の皆さんの皇居外での写真
 「お会釈」のあと、また作業に戻りました。1時間弱の作業、3時半に終了。これで皇居のお仕事3日間は終わりました。窓明館に戻り、天皇陛下よりの「引き出物」を代表がとりにゆきました。「引き出物」は「皇室」という2文字が入った立派な封筒に「天皇ご一家の写真集」が入っておりました。また小さな小箱にはご紋入りのお乾菓子でした。その他、想い出に残るものとしては集合写真一葉のみ、それでも心の底に沢山の思い出を詰め、日本の原点、日本人として生まれたルーツを見つめたこの3日間をこの上もない貴重なものと感じた次第です。(第二部終わり)
 
「皇居の奉仕でご先祖に会えた」第一部のURLは下記の通りです。
 
なお、この項の写真はすべて徳力氏からお借りしました

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皇居の奉仕でご先祖に会えた
 
ブラジル日本会議7回皇居勤労奉仕 第一部
   皇居勤労奉仕は、昭和20年5月に空襲で焼失した宮殿の焼け跡を整理するため、同年12月に宮城県内の有志が勤労奉仕を申し出たことが始まりであり、それ以降、全国の有志による勤労奉仕が行われています。ブラジルからの参加は今回で七回目にあたります。日本学生海外移住連盟OB(三重大卒)でもある、徳力・第7回皇居勤労奉仕団団長の報告を三部に分けてお送りします。
    
           徳力啓三(ブラジル日本会議・第7回皇居勤労奉仕団団長)
 201210月のブラジル日本会議の役員会で、勤労奉仕団の団長を引き受けることになった。団長名が決まらないと、宮内庁に対して、奉仕団の申し込みが出来なくなるという理由からであった。少なくとも奉仕期間が始まる6カ月前に申請しないと無効になるという。団長の資格は、75歳以下であることと健康であることが必須といわれ,「貴方はその条件を満たしている」と強請された。ぐじゅぐじゅと悩んだ挙句「俺にも出来る」と決心した。
 
 11月に入って団員の募集を始めた。ブラジルと日本は遠い。飛行機代だけでも2000ドル前後は掛かる。それに地上費といわれる日本での経費が約20万円、考えてみれば随分と高い。また奉仕団としての団体行動は最小で6日間、前後の往復に3日間をみると最低で9日の旅となる。これだけの条件をクリアーしないと、団員にはなれない。宮内庁への申し込み人数は30名という。
12月と1月、かなりの努力をし、パラナ州はロンドリーナとマリンガまで出かけ勧誘に歩いた。1月末を第1次締め切りとしたが、集まったのはブラジル側で13名、日本在のブラジル大好き党のご婦人が2名参加してくださることが決まった。どうやらそれで目標の50%となった。
 
 2月になって、日本のオイスカに応援を求め、残り15名の募集を頼んだ。
団員表を提出した翌日になって、血流不正常でドクターストップが掛かった団員から、夫婦二人のキャンセルがでた。なんとしてもブラジルから半数の15名を確保するため、あちらこちらに電話を入れ、再勧誘に努めた。最終的には、親子で訪日され、日本では別行動をとるという息子さん方に奉仕団に入ってもらうように説得した。が、難問であった。ぎりぎり一杯、「二人の息子が奉仕に参加する」と連絡が入った時のうれしさは今想いだしても切ない。最終的には日本在のご婦人がもう一人加わり、ブラジル側13名、日本側3名、オイスカ組が10名で合計26名の奉仕団が出来上がった。
 
 327日、勤労奉仕の決団式兼送別会がピニェイロスの「八代」で行われた。パラナ州の3名とサンパウロの1名を除いた9名が集まった。ブラジル日本会議の役員10余名が集まって下さり、激励の言葉を頂いた。一番若い人で35才、最高が81才と年齢はばらばら。男が8名、女5名。サンパウロ州10名、パラナ州3名という組み合わせで、この日が最初の顔合わせであった。ブラジル日本会議はすでに7回奉仕団を送り出しているが、経験者達が、「皇居に行けば、どこででも経験出来ないすばらしいことがある、目をあけ、耳を立てて、よく見て、よく聞いて来てください」とはなむけの言葉があった。
また、目には見えない世界で「きっと、ご先祖さまが喜んでおられるのを感じられるかも」との励ましもあった。
 45日金曜日、夜10時グアルリョス空港に集合、エミネンテ航空の午前1時半の飛行機で本隊7名が出発。途中砂嵐でドバイ空港着が遅れ、成田に着いたのが翌7日の夜19.001時間半遅れの到着であった。東京の芝増成寺にある東京プリンスホテルに到着したのは22.00過ぎであった。グアルリョスに集まってからホテルまで正味36時間掛かった。でも、全員無事、到着を祝った。
 
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スカイツリー前での団員の記念写真(ブラジル在住・石田幸作氏撮影)
 さて、翌日は、東京観光で疲れを癒そうというわけ。7日日曜日の関東は春嵐で、634メートルのスカイタワーは大揺れだったとか。ところが月曜日は嘘のような快晴、風もなく、展望は最高の条件、勿論富士山もバッチリ見える。人の込み具合も程よく、第一展望台350mより第2展望台の450mまで更に上昇。上がった人は「天下を取ったような気分」になったそうだ。あと、浅草あたりを観光、外人さんの多い事。日本では外人とは私らブラジル人のことをいうはずだが、私らを含めないで、実際外人さんが多い不思議な現象を見て、驚いたりしていた。
 
 午後、靖国神社に参拝。ブラジル産の有機珈琲を奉献。玉ぐし料などを用意し「ブラジル日本会議勤労奉仕団」として参上の旨、奉加帳に記入した。ブラジルを出た時から、団長は奉仕団のすべての責任者となる運命を背負っている。知らないことも知っているような振りをして、堂々と奥の院まで
案内される。うしろには神妙な顔をした団員のみなさんがついてこられる。玉串を奉納して、二拝、二拍手、最後に一拝、後ろの皆さんも私に合わせてくださる。245万の神霊に対し最大の敬意を表した。これもまた奉仕団の大事なお仕事、私にとっては始めての経験、神の道をなぞったようだ。
 
 夕食は、浜松駅前の居酒屋。ここで初めて奉仕団が一堂に集まった。とはいえ、ブラジル組は13名と日本組3名、それにオイスカ組が2名で18名、オイスカの方8名は明朝直接皇居に向かいそこで合流することとなった。勤労奉仕に来られる方々は、物怖じなどしない。初対面でありながら、皆打ち解けてそれぞれの席を譲りあいながら着席。食事の前に、元皇宮警察の向後氏に「皇居に関するお話」を聞いた。明日は745分、皇居の桔梗門前に整列,点呼を受けること。いよいよ明日から奉仕が始まる。
 
 奉仕作業第1日目は、宮殿周りの仕事。といって仕事が始まるまでに、奉仕団休憩所―窓明館に集まった団体の様子を見てみよう。この日9日に集まっていた団体は8団体、約300人。もんぺ姿の人たちは埼玉県からきていた。
大よそ80人の団体でキチンと統制のとれていること、年2回、すでに120数回も奉仕されている由、北海道からはモラロジーの団体、愛知県からは赤十字のというわけで、それぞれがユニホーム代わりの衣装をつけられ、他団体と見分けが付くように工夫されていた。私たちブラジル組は、緑のベストを着、緑の野球帽といういでたちである。奉仕担当の職員さんの皇居内での注意事項をたっぷり聞かされ、カメラの使用は一切駄目と念をおされた。
 
各団体毎に庭園係りの職員が一人つき、作業に出発するも第一番に集合写真を撮りますから、二重橋の近くまで移動してくださいと命令がでた。奉仕団のお休み所から,富士見櫓の横を通って、宮内庁庁舎の横を通り過ぎ、宮殿前の大広場を越え、伏見櫓をのぞむ二重橋近くの芝生まで、どれだけ歩いただろうか。距離にしたら1km位だろうが、途中案内に立ってくれた職員さんがごくごく丁寧に、建物の話から、御殿の中の様子まで詳しく話してくださる。そのたびに立ち止まり、お話を聴く。8団体全部の集合写真を撮り終えるまでに2時間はかかった。皇居の中で撮った唯一枚の写真がこの集合写真、専門の写真家が撮っただけあって見事に撮れている。一枚800円なりの記念写真である。皆さんうれしそうに、にっこりと笑っているのが素敵である。 
 
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皇居の中で撮られた唯一の写真、前列中央が徳力団長
宮殿の中でも一番大きな建物が長和殿である。天皇陛下ご一家が正月に国民の参賀を受けられるところである。ご一家が挨拶を受けられるベランダが長和殿の一部であり、建物の端から端まで165メートルもある。国民が待つ所が宮殿東庭という。とてつもながい建物だが、簡素、落ち着いた感じで、なんとなく威厳がある。ああこれが、天皇陛下のおられるところかと思うだけで、やっぱり何かが違う。ベランダから見て、お庭を挟んだ向こう側に、1メートルほどの高さの石垣があり、その上に生垣がある。この生垣がまた長い。200メートルは超えている。見事な刈り込みでまっすぐ、上面はまっ平らで、側面には枯れ枝一つ見あらたない。係りの方の話だと、すべて手刈りという。そんな技術があるものかと思うが、そこは100年単位の経験と皇居をお護りするという必死の意気込みの現われであろうと感じた。自然の中に端然と佇む長和殿と周りの景色が溶け合って、日本の味が醸し出されている。これが連綿と続くわが皇室の歴史であり、そこから生まれた日本文化の粋というものなのだろうか。
 
奉仕に参加すると、宮殿の中にも案内される。日本に住んでいる人たちは、皇居に入ることも、ましてや勤労奉仕の制度があることさえ知らない。私がこの度の旅で会った人に「皇居の掃除に行ってきた」と言うと信じられないという顔をする。ある人など、それは戦後少しの間はあったかもしれないが、今は「死語」となっている言葉であるという程である。が、知っている人も、日本全国には沢山いるようで、大都会など先進地域では知られていなくても、田舎に行けば天皇陛下ご一家を敬慕する人も多くいて「勤労奉仕」を今の言葉として知っておられるという。一般の方が正月に皇居に参賀にいったり、皇居の参観に出かけられることも多いらしい。皇居東御苑などは、一般の参観に開放されているし、無論入園料など不要である。配られた参観案内書などみると、皇居の一部には入ることができる。
我々は奉仕団である。天皇皇后両陛下が、態々「お会釈」という行事に出て来られ、奉仕団のみなさんにお声を掛けて下さる。係りの人たちも、天皇陛下の気持ちになって、できる限りの親切を奉仕団に与え、奉仕団に感謝の意を示される。従って皇居内の案内も微に入り細に至り、懇切丁寧である。
勲章をもらったり歌会をしたり、或いは外交官や政治家の出入りする公式の場所には案内して頂けないが、お庭の隅々まで自由に歩き回れ、また天皇皇后さまの田植えされる田んぼや養蚕用の桑畑にまで入り込める。また盆栽がずらりと並んでいる盆栽庭園の草むしりまでさせてもらえるから大したものである。奉仕団というのは「名前」だけで、その実は「皇居観光団」に近いものと感じたのは私だけであろうか。
(第一部終わり)
 

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メキシコ小話「闘鶏」
 「闘鶏」を翻訳していて、昔ラスべガスでカジノ幹部から聞いた話を思い出した。
「ラスベガスのカジノ業界はメキシコの大統領が代わる度に、多額の献金を行って、メキシコ政府がカジノ開設を認可しないよう陳情している」という話だった。
 歴代大統領はみな「カジノを認可する気はなかった」ため、献金はすんなり受けとっていた、と語っていた。
 
 カジノがないメキシコで多額の賭け金が動くのが、「闘鶏」である。賭け金はラスベガスのバカラ以上だと聞いている。
マカオにカジノがなかった当時、ラスベガスに来る外国からの上客は、メキシコ人、シナ人と日本人だった。
ひょっとすると、日本にカジノが出来ないのは、ラスべガスの献金の所為? なーんちゃって…
 
 閑話休題、一笑一若・メキシコ小話「闘鶏」をE N J O Y !!!  
 
メキシコ小話 「闘鶏」
 
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写真(blogs.yahoo.co.jp
 メキシコで職業闘鶏師国際会議が開催中のときの話である。
会議で大評判になっていたのは、「指を軍鶏の肛門に入れるだけで、鶏の出身地を言い当てる」男だった。
 
 彼は指を鶏のあそこに入れて、しばし黙考した後、「この鶏はフィリッピンのミンダナオから来た」と、ピタリと当てて見せるのだった。
 
次の軍鶏が来ると、同じ触診を行った後、「これはペルーのクスコから来た」と言い当てた。
その次の鶏は「メキシコ・シティーから来た」というぐあいに一羽として間違えることはなかった。
 
すると、この男の前に、今にも卒倒しそうな酔っ払いがやっとの思いでたどり着いた。
ろれつが回らない口調で、酔っ払いはどもりどもり言った。
 
「マエストロ!頼むから、軍鶏にやったことを俺にもやってくれ。
二週間前から酔っぱらっていて、自分がどこから来たのか思い出せねーんだ…」
 
お後がよろしいようで、

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        京都のコーヒー店とタクシーとミシュラン
 
                          イノダコーヒー
 以前から京都は日帰りでも楽しめる、と友人から聞いていたので、GWに京都へ行って来た。友人にぜひ朝食はイノダコーヒーでと勧められていたので、イノダコーヒー本店に直行した。「京都の朝は、イノダコーヒーの香りから」のスローガンは京都では知らない人はいないほど有名なのである。
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左)イノダコーヒー店入り口          右)一瞬空いた店内を撮る
 918分京都着の「のぞみ203号」を降りてイノダに着いたのは10時前だった。タクシーは行列無しに乗れたし、朝の道路は意外に空いていた。店に着いて驚いたことは、建物が町屋風だったことと、二、三十人の行列が出来ていたことだった。
一階が喫煙席で二階が禁煙席だが、禁煙席は希望者が多いとのことだったので、私は一階を選んで、定番の「京の朝食」\1200と「アラビアの真珠」コーヒー¥550を注文した。朝食は、スクランブル・エッグス、サラダ、厚切りのハム二切れと温かいクロワッサンだった。オーソドックスな洋風朝食が、店の雰囲気と店員さんの好サービスと相まって、たいへん美味かった。
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左)京の朝食      右)ホット・ティー、メキシコはこのグラスでカプチーノを飲む
 
 興味深かったのは、コーヒーを注文すると、「当店では最初から砂糖とクリームをお入れしますが、よろしいですか?」と訊くことである。
ブラックが良い人は「断れば良いわけだ」が、これは京風お持て成しなのだろうか。
コーヒーの飲み方にはいろいろある。たとえば、スペインでは男性は濃いコーヒーでも「クリームなし」が当たり前である。もしクリームを注文すると、「それでも男か?」と軽蔑されるのがオチなので、この方式はスペインでは成り立たない。
 
 さて、店内は町屋風の外観とはことなって、洋風の高天井で大きな窓から日本庭園が望め、テラスにもテーブル席がある。一階の大サロンと別室だけで10席は軽く超える。二階の禁煙席は見なかったが、一階と同じ広さらしいので、こんな大きなCaféは欧米でもめったにないだろう。
イノダコーヒーはケーキの品ぞろえが豊富なことはもちろん、軽食メニューもサンドイッチ、パスタ等数多くそろっている。創業昭和22年のこの会社はコーヒーの卸、小売りも行い、京都市内はおろか全国に支店を持っている。
 
 京都で最も古いコーヒー店は昭和7年創業の「スマート珈琲店」である。
その他、京都には前田珈琲店、高木珈琲店等の名店があるが、ここに挙げた三店ともコーヒーを珈琲と漢字で書くところが京風で面白い。
という訳で、「京都の朝はイノダコーヒーの香りから」始まった。
               
                  京都のタクシー
イノダコーヒーを出て大通りに出ようと歩きはじめると、直ぐタクシーがつかまった。京都は街中でも観光地でもタクシーにすぐ出会えるのがうれしかった。通常料金は中型650円、小型640円だが、私が乗ったタクシーは580円が普通で、通常料金のタクシーの方が珍しいのかも知れない。その上、5,000円を超えると超過分は50%引き、と言うタクシーもある。観光タクシーも盛んで、中高生の修学旅行はもっぱらタクシーが利用され、運転手がガイドも兼ねるのである。
 
 イノダから清水寺まで乗ったタクシーの運転手さんは、高僧のような風格の偉丈夫だったが、GWが終わると、修学旅行の生徒たちの予約がびっしり入っていると、言っていた。私も京都の世界遺産を廻ったとき、ノート片手にタクシーで観光している、中高生のグループを沢山見ていたので、「最近の中高生たちの評価」を聞いてみた。すると、「学校にもよりますが男子はひ弱く、女子は礼儀知らず」だと言っていた。男子は草食系が多いそうで、寺社見学も女子がリーダー役を務めるグループが多いというから、ひ弱い男子たちの先行きが思いやられる。
 
 しかし、しっかりした生徒たちももちろん多い。 一作年私が比叡山の根本中堂で出会った、千葉県市川市から来たと言う、修学旅行中の男女高校生たちは、お坊さんの講話中、全員正座して身動きもしなかったことを思い出した。こういう学校もあり、生徒たちもいるのだ。もっともこれだけでは、「男子がひ弱いかどうか」までは分からないが、女子はみなかわいらしくて礼儀正しかった。
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日の丸をつけて走るラクヨータクシー
さて、京都のタクシーで特筆したいのは、ラクヨータクシーである。私が京都を訪ねたのは祝日だったので、すべてのラクヨータクシーは「日の丸」をつけて走っていた。かなり大きな会社のようで、赤い車体の「日の丸」ラクヨータクシーはとにかく目立つのが、Urashimaの私には大変うれしく、ますます京都が好きになった。
 
                              ミシュラン
 
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八坂の塔をバックにした舞妓さん
イノダコーヒー近くで乗ったタクシーを八坂の塔で有名な法観寺前で降り、二年坂を歩いて清水寺に向かった。途中、カメラマンが八坂の塔を背景にして舞妓姿のモデルを撮影していたので、私も一枚撮らせてもらった。
清水寺の参道は上り下りの善男男女がまるで新宿駅のラッシュアワー並みの混雑だったが、皆さんそぞろ歩きなので、雑踏といった感じはなかった。清水寺も舞台が落ちるのではないかと心配になるほど、参拝客であふれ返っていた。
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左)世界遺産・清水寺の山門       右)人、人、人の清水の舞台
 
 私は参道である清水坂、二年坂、三年坂の土産物、陶器店等を冷かしながら通った。どの店も個性豊かなうえ、実にセンスの良い、洒落たデザインの商品を取りそろえている。女性たちをして喜々として財布のひもをゆるめさせるのは、1000年の歴史によって培われた、センスと確かな技術の裏付けがあるからだろう。私は自分用にちりめんじゃこと西利の漬物を買った。
 
 この坂道で転ぶと、二年坂は二年後、三年坂は三年後死ぬと信じられているので、坂道を走る子供はいない。言い伝えによると、二年坂にある瓢箪屋のひょうたんが転倒よけのお守りになるそうだ。
さて、二年から三年坂を通って、高台寺に参詣した。太閤の正室・北政所が夫の菩提を
弔うために開創した寺院で、小堀遠州作の庭園がある。高台寺は京都の寺院では高山寺とともに私が好きなお寺の一つである。
 
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特別奉納された期間限定の石庭、高台寺
 昼食は高台寺の井戸から名前をとった「菊乃井本店」でと決めていたが、全席借り切りのグループがいるとかで入れなかった。やむなく隣の「高台寺よ志のや」に変更したところ、これが素晴らしい名店だった。
店の入り口にミシュランのガイドブックがあったので、しおりがあったページを開けてみた。すると、この店はミシュランガイド・旅館部門で四つ星を獲得している京料理旅館だった。(最高は六つ星)                                        
  ところで、私は一昨年、突然飛び込んだ京都のうなぎ屋で、まったく同じ経験をしていた。さりげなく置かれていた、ミシュランのガイドを開くと、「まえはら」という店はミシュラン一つ星の名店だった。予約なしはお断りといわれたが、運よくキャンセルが入ったので、絶品の「うなぎ丼」にありつけたのは将に棚からぼた餅だった。
 
帰京後調べてみると、なんと「菊乃井本店」もミシュランの三ツ星レストランだったのには驚いた。犬も歩けば棒にあたると言うが、京都ではUrashimaも歩けばミシュランに当たるのである。いやはや京都とは何ともすごい土地ではありませんか?
 
さて私はよ志のやで「よ志のや御膳」を注文した。てんぷらも良かったが、絶品は豆乳で調理した豆腐だった。聞くと、店の名物だと言う。次の機会は、朝食に供されるこの豆腐を食べにぜひ「よ志のや」に泊まりたいものだ。
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左)伏見稲荷大社の油揚げをくわえたきつね像      右)同大社の千本鳥居
 昼食後、伏見稲荷大社に参詣した。狛犬に相当するきつねが「あぶら揚げ」をくわえているのは、お稲荷さんの総本社としては当然だが、何とも愛嬌があって良い。あいにく降り出した雨で今回も千本鳥居の終点まで行けなかった、いや行かなかった。
 伏見からタクシーで京都駅に戻り、近鉄名店街の竹善で「おばんざい」をさかなに一献傾け、京旅の締めくくりとした。
 
今回の日帰り京都旅行で分かったことは、人口147万(2012年現在)の京都は、タクシーを使えば、清水寺、高台寺、伏見稲荷大社までゆっくり参拝でき、朝、昼、夕三食もちゃんとしたレストランで食べることが出来ることだった。
奇しくも、京都は私が半年住むサン・アントニオ市とほぼ同じ人口なのである。(サンアントニオは130万)
人口150万くらいの市は、私が住んだ、東京やメキシコ・シティーと違って、住人も訪れる人も快適に過ごせる丁度良い「大きさと塩梅」なのだろう。
 
 そして、京都は東京から日帰りでも十分楽しめることも分かった、今回の旅だった。
(終わり)
 
 写真はすべて筆者撮影
 

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