アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2013年09月

イメージ 1
 

     「フランス兵と石鹸と花火」

  アメリカ人は他国人を扱う小話が大好きである。最近見つけたアメリカの小話本は、小話をセックス、天国と地獄、警官等々193部門に分類している。
そして国民,民族に関する部門はAmericansMexicans16あるが、中でもJewish Jokes , Irish Jokes, Polish Jokes, Chinese Jokesは作品数が多いため、わざわざJokesをつけて別格扱いしている。さらに、England and Englishという部門もあり、フランスは何故か、The Frenchと定冠詞がつけられている。
 
 なるほど、これらの国民、民族は小話世界の大リーグ級なのであり、各々ケチ、好色、弱虫、間抜け等の得意技を誇っている。それにしても大英帝国は、IrishEnglishがそろって大リーグ入りしているから、小話世界のチャンピオンと言える。
 
 なお、幸か不幸か我が国はリストに記載もれである。
ではトップバッターは、定冠詞がつくフランス人に登場してもらおう。
 

  「フランス兵と石鹸と花火」 

 
                           
イメージ 2
 
                            フランスの水兵たち(blogs.stat-cons.com)
 1.フランス兵を困惑させるにはどうしたら良いか?
   銃を持たせて発砲してみろ、と言う。
 
 2.フランス女性から何か隠すとき、最上の場所は?
   石鹸の下。
 
 3.フランスのディズニーランドで花火を上げない理由?
   花火が打ち上がる度に、フランス人は一斉に「降参」と言って両手を挙げるから。
 
 【小話後記】
 花火を爆弾と混同し、鉄砲も打てないフランス兵の弱卒ぶりは、世界的に有名である。
彼らはベッドではツワモノらしいが。
 次は2の解説。フランスの博物館で18世紀のドレスを見たとき、ある外国婦人が、「ドレスの広く開いたネックラインに太い針金が入っているのは何故か?」と質問した。
博物館の婦人学芸員は苦笑して曰く。「ネックラインからシラミが這い出てこないように抑えてあるのです」
 彼女たちは風呂嫌いなので、シラミだらけだったようです。良くしたもので、「くさい女がセクシー」と喜ぶのがこれまた風呂嫌いのフランス野郎なのです。
 
 要するに、フランス人は弱虫でくさい民族なのです。失敬!
(終り)
 

イメージ 1
 

     「サン・アントニオのマーケット」

イメージ 2
  
 市場でメキシコ合衆国独立記念日・行事が行われていた。左からテキサス州、メキシコ、米国の旗
 先日サン・アントニオのダウン・タウンにある、エル・メルカードの愛称を持つマーケットに行ってきた。一緒に付き合ってくれた息子夫婦も初めてだという、スペイン語で市場を意味するエル・メルカードは、テキサスと合衆国の合併より25年前の1820年創業というサン・アントニオ最古の市場であり、メキシコ国外最大のメキシコ民芸品市場でもある。
イメージ 4 イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
(左)サン・アントニオのエル・メルカード入口          (右)メキシコの仮面
 エル・メルカードに入って最初に目に付いたのは、「あんたたちは地獄に落ちろ、俺はテキサスに行く!」と胸に大きく書かれたTシャツだった。これはデイビッド・クロケットが故郷テネシーを去るときに言い放った、かの有名な捨て台詞なのである。
彼にとって最後となった連邦下院選挙に落選したクロケットは、この台詞の前に、「あんたたちは義足男のアダム・ハンツマンを選んで俺の後釜にすえたのだから…」と憤懣やるかたない思いを吐露した後で、この捨て台詞を述べたのだった。そして、テキサス入りしたデイビッドは、後日サン・アントニオにある、「アラモの砦」に籠城したのである。だが考えてみると、メキシコ民芸店で敵方のクロケットの土産物を売るのは一見奇妙だが、彼は敵味方を超越した英雄と言うことなのだろう。
イメージ 5 イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左)世界的に有名なメキシコのプロレス用マスク 右)チャーロ(カウボーイ)のソンブレロ(帽子)
 さて、エル・メルカード創業時のサン・アントニオはまだスペイン帝国植民地・ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)の一地方であるテキサスの一寒村だったが、翌18219月メキシコはスペインから独立するのである。そして、デイビッド・クロケットの活躍で有名なアラモの砦の戦闘が戦われたのは、1836年のことだった。 
イメージ 7
イメージ 8
 
 
 
 
 
 
 
 
(左)ピニャタ:中にある素焼きのかめ内にキャンディー、小さなおもちゃが入っている。子供の集まりで棒で割って遊ぶ。その起源はカトリック神父が原住民を集めるために発明した、伝えられている。
(右)色取り取りのメキシコのチリー(とうがらし)、ただしこれは陶器製のキッチンのかざりもの
 
 当時のマーケットには薬局と布地、衣料等を扱う雑貨店の二軒の他に、近在の農家が販売するチリーを初めとする農産物の市が立った。売り子のおばさんたちはチリー・クイーンと言う愛称で呼ばれていたと言う。チリーとはとうがらしのことである。因みにメキシコのチリーは種類が豊富な食材で、色、サイズは様々である。
 そして装いを新たにした、現在のマーケットは、テキサス、否アメリカの聖地と言われるアラモの砦を訪れる観光客に国境の南[South of the Border]の雰囲気を味合ってもらおうと、メキシコ民芸品店やメキシコの郷土料理の店が軒を連ねている。
 実際これらの「国境の南」文化とエキゾティックな雰囲気はアメリカ人に人気が高く、サン・アントニオ市の重要な観光資源の一つになっている。
 
 巨大な体育館のような3棟の建物から成るマーケットの一つには舞台もあって、メキシコの歌とダンスのショウが無料で楽しめる。我々が訪れた日は、ちょうどメキシコ独立記念日だったので、舞台にはメキシコ国旗、星条旗とテキサス州旗を持つ美女たちが並んで、独立運動の口火を切った、ミゲル・イダルゴ神父の独立のEl Grito(雄たけび)のセレモニーが行われていた。
 
 メキシコ・シティーでは大統領が官邸のテラスから「独立運動の英雄 万歳!、メキシコ独立万歳!」と叫ぶのだが、サン・アントニオのマーケットでは、アメリカ合衆国万歳!、テキサス万歳!、サン・アントニオ万歳!」がつけ加えられていた。
イメージ 9
イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 
 
(左)メキシコの郷土人形 (右)オアハカ地方の刺繍いりワンピースとハロウィーンのかぼちゃ
 
 マーケットのパティオに並ぶ屋台でメキシコ料理を調理する、大部分が中年の太目のおばさんたち(失礼!)は200年前と同じような色とりどりのダブダブ・ロングスカートを着て、にぎやかに客をアテンドしていた。
 我々は昼食を近くのメキシコ・レストラン・リバティー・バーで済ませたばかりだったので、屋台のタコスは食べず仕舞いだったのは少々残念だった。
 
 皆さんもサン・アントニオを訪れる際は、ぜひこのマーケットを訪ねることをお勧めしたい。アメリカとは一味違う、「国境の南」の雰囲気が味わえると言うものである。
 (終り)

イメージ 1
 
 
  サン・アントニオに着きました
 
9月10日午後4時成田を出発して、同日午後4時テキサスのサン・アントニオに着きました。東京Texas間の時差14時間のお蔭で、こんなことが起きるのです。まる一日得した気分です。空港にはニューヨーク大学を卒業したばかりの孫Rickが迎えに来てくれました。息子夫婦は急用が出来て留守でしたが、留守を守る3歳のKenzoがお手伝いさんとともに出迎えてくれました。
イメージ 2
             
 
 部屋にはWelcomeの鉢植えの花が飾ってあった
 
こちらの気候は8月の東京なみで、最高気温33~36度位ですが、朝夕が涼しいので助かります。夕食は私の好物のメキシコ料理が用意されていたので、孫と二人でテキーラ飲み飲み、まさに鯨飲馬食のありさまでした。ダイエットは明日から始めます。
 うれしいことに、孫が翌日のゴルフを予約してくれたので、孫と二人で18ホール廻ってきました。あいにく、4番ホールで大雨が降り出したので、クラブハウスに避難しましたが、30分後プレイが再開出来ました。
             
イメージ 3
 
孫Rickと18番ホールの9・11犠牲者を追悼する星条旗
 
昨夜は、孫と彼の友人の三人で息子が経営する、Sushi Zushiに夕食を食べに行きました。Texasにも焼酎があるので東京と同じ気分で、すしがエンジョイできるのは最高です。すっかり良いきもちになって、孫のRickと彼の友人に、学生時代三笠宮様と連れ小便した話をしたところ、映画監督志望の孫は、「これは映画になる」といって大喜びしていました。
イメージ 4
  
シャボン玉遊びをするKenzo
 
昨日と今日はKenzoを迎えに幼稚園にも行ってきました。週末には家から車で一時間半の距離にある、Texas大学Austin在学の孫娘が会いに来てくれます。残りの孫たちはMexicoに二人、フィレンツェに一人、もう一人がアナハイムにいます。土曜の朝はいつものフォーサムとのゴルフもあります。お蔭さまでこんな具合に、テキサス生活を始めました。近日中にテキサスから「アメリカ便り」を発信いたしますので、隅から隅までずず ずいーっと宜しくお願い申し奉りまする。

イメージ 1
 
40年の歳月を経て奇跡の巡り会い
【まえがき】
山添洋子さんに初めてお会いしたのは、昨年横浜JICAで開催された、学移連(日本学生海外移住連盟)OB総会のときでしたが、初対面とはとてもおもえませんでした。
というのは、数年前ブラジルの和田好司さんが主宰する「私たちの40年」のML上で、40数年前アマゾンで父を亡くし、帰国途上の南米定期航路客船・あるぜんちな丸船上で母を亡くした三人の乳幼児と同船のスチュワデスだった、山添さんとの出会いの話を読んでいたからです。
 
日本人の海外移住史に残る、この悲しい出来事と感動的な再会、そしてブラジルで遺児たちに寄せられた日系社会の人々の温かい同胞愛の心を、ぜひ多くの皆さんに知って欲しいと思い、当時の一部始終を文章にまとめて欲しいと山添さんにお願いしたところ、快諾してくださいました。
「オリンピックを東京に!」という招致活動で、ブエノスアイレスやリオデジャネイロの地名が飛び交うこの夏、猛暑の中、「40年の歳月を経て奇跡の巡り会い」を執筆してくだいました。
 では、ごゆっくり山添さんの感動のメッセージをご味読ください。(富田)
 
 
40年の歳月を経て奇跡の巡り会い
山添(旧姓岸本)洋子
 
2005年(平成17年)、私は約40年ぶりに懐かしいブラジルを訪問しました。実は私は学生時代、ラテンアメリカ研究会に属していた関係で1965年、日本学生海外移住連盟第6南米学生実習調査団団員として8か月余りブラジルに滞在した経験があります。
その当時お世話になった方々や現地に住む学生時代の多くの友人、知人と再会する中、「watasitatino40nen」というメーリングリストを主宰する和田さんにお会いしました。そして、アマゾン地域の想い出として40年前の忘れることが出来ない、ブラジル東海岸を航海中だったあるぜんちな丸で起こった悲話をメーリングリストメンバーとして投稿したのです。
イメージ 2
                            
 
南米定期航路客船・大阪商船三井船舶あるぜんちな丸 (すべての写真は山添さん提供)
それは夫をアマゾンの開拓地で亡くして失意の帰国途上の若い未亡人が、三人の乳幼児を残して、あるぜんちな丸から身を投げるという「悲しい出来事」でした。当時私はこの船のスチュワデス(当時の職名)として、その現場に居合わせたのです。
 
一方、遺児の一人、日本に住む礼子さんが父母の住んだ国、自分の出生地が懐かしくてブラジルに関係のある和田さんの画像掲示板を見つけて自分のことを書き込んでこられたのです。和田さんのお蔭で、「これとこれは同じ話だ」とつながり、40年の時を経て、奇跡的とも言える私たちのネット上での出会いとなりました。遺児3人は元気に日本で暮らしておられたのです。
その後、このMLを通して、また、伯国の新聞や日本の新聞などでこの話しが拡がりました。伯国の日系社会でもこの出来事は大変ショッキングなニュースだったので、40年経っても皆さんの記憶に残っていて、当時のことがいろいろ明らかになりました。
 
あるぜんちな丸、ベレン港着
1967年(昭和42年)72日横浜港を出航した商船三井の貨客船あるぜんちな丸は87日アマゾン川下流のベレンに寄港しました。この港には大きな船は接岸できないので、あるぜんちな丸は沖合に停泊。待機していると大河のかなたから小さな船がやってきて横付けになり、少数の移住者たちが荷物とともに不安定なタラップを降りてその小さな船に乗り移って行かれました。
横浜からの1カ月余り、今の豪華クルーズ船の比ではありませんが、当時としては珍しく、まだ就航したばかりの日本の外国航路客船として、船内では毎日フルコースの食事、イベントの数々、何にもまして温かく行き届いた接客サービスが提供されて、船客の皆さんは快適な旅を続けてこられていました。が、ここにきて、沈みそうな小さな船に乗り換え、言葉も分からない黒人の屈強な男たちに促されて暗い船内に入っていく人々の気持ちはいかばかりか、アマゾン地方への移住の現実を思い知らされる場面でした。その小さな船が離れていくときには、アナウンス担当の私は船内放送で「皆様お元気で!」と。そして「蛍の光」や「アニーローリー」の曲を繰り返し流して別れを惜しみました。送る方も送られる方もちぎれるように手を振り、声をかけあって涙、涙でした。どこの港でもいつも悲しい別れがありますが、岸壁もない、見送りも出迎えもないベレン港沖合での別れは特別悲しいものでした。
イメージ 3
 
船内で礼子ちゃんを抱く山添さん、男の子は裕之君。女性は同僚のスチュワデス
下船者に入れ替わって、この港では珍しく、一人の若い女性が3人の乳幼児(5才長男、2才長女、9ヵ月次女)を連れて乗船してこられました。その女性は25才で、つい先ごろ、胡椒栽培をしていた26歳の夫が病死し、国援法で帰国する人でした。船は帰路ベレンには寄港しないので、ここから一旦アルゼンチンのブエノスアイレスまで南下して60日かけて日本へ戻るのです。
 
乗船後4日目、たまたまアルゼンチン人の1等船客の男性が急病死されました。往復この船で日本観光に行って母国へ帰る途中の方でした。船にはドクターと二人の看護師がいますが、船客が亡くなるなど異例のことでした。
 
女性が子供たちを残して…
その日の午後、私がチルドレンズコーナーにいると、その女性が子供たちを連れて通りかかられたので、「ここで遊んでいきませんか?」とお誘いしたところ、小さな声で「いいえ」と言って、デッキへ上がって行かれました。その後、私も上がっていったところ、デッキは異様な雰囲気。なんと、今、その女性が船尾から投身したとのこと。震える手でデッキの電話を取り事務室に知らせると、たまたまそこにおられた篠田船長達は脱兎のごとくブリッジへ駆け上がり、大捜索が始まりました。船客も乗組員も皆デッキに出て海面を見つめました。大海の中で木の葉1枚を探すようなことで、なかなか見つけるのは難しいものだそうですが、幸いにも約2時間後、遺体を発見することができました。ブリッジの船長以下、航海士たちは目や手が痛くなるまで双眼鏡を覗き続けたと言います。そして、救命ボートをおろし、救助に向かう時には、近くを大きな鯨が泳いでいてハラハラする場面もありました。その間、突然母親を失うという出来事さえ理解できない乳幼児たちを私たち二人のスチュワデスや女性船客たちが抱っこしたり、ショックで声を失っている5才の長男の手を握りしめたりしていました。
 
その後看護師さんたちが遺体をきれいにお化粧し、棺に収めました。船は急遽、近くのレシフェ港に寄港してお二人を降ろし、アルゼンチンの方は空路帰国、この女性はレシフェ領事館の手で、現地に埋葬されたそうです。それからは、船客の有志の方々がお世話をしてロサンゼルスまで船で、そこからは飛行機で遺児達を日本まで連れ帰りました。私の人生で忘れられない大事件でその後、折に触れ、この子供たちのことを案じていましたがその後の消息は知りませんでした。
イメージ 4
 
子どもたちを連れてリオ・デ・ジャネイロ観光。裕之君と手をつなぐ山添さん、礼子ちゃんと同僚スチュワデス
 
その後…
私たちのメール上での出会いがあって以後、多くの方から寄せられた情報によると船がサントスに着いてから終着のブエノスアイレスまで行ってくる間、サンパウロ領事館の赤尾さん夫妻が3人を自宅に預かってお世話されたそうです。その間、日系コロニアからは遺児たちへ温かい志が多数寄せられ、引き取って育てたいという申し出も30組もありました。また、無縁仏になっているかと思われていたお父さんは、現地に住む親族の手で、立派なお墓に納められて40年間手厚く墓守りされていました。
一方、レシフェで埋葬されたお母さんのお骨は、その後日本に送られてきて栃木県のお墓に入っています。
遺児のうち長男の裕之さんは栃木の母方、2姉妹は埼玉の父方の親族に引き取られて無事に成長されました。しかし、顔も声も覚えのない両親のことを知っている人たちに会ってみたい、父のお墓に参りたい、自分たちの生まれたところに行ってみたいという切実な願いを遺児たちはもっていました。それを知って、日本にも強力な支援者が現れ、ついに2008年、遺児の礼子さんと美代恵さんの訪伯がかないました。アマゾン地域で父のお墓に参り、両親を知る人たちに出会い、また、サンパウロで2週間ほどお世話になった領事館の赤尾氏宅も訪ねました。氏はすでに亡くなっておられましたが、90才過ぎの奥さまは健在で当時10代だった息子さんたちと共に出会えて、非常に懐かしがられ、昔話を聞かせてもらうなど、2姉妹にとっては何もかも感動と感謝でいっぱいの訪伯だったということです。「まるで両親が見えない糸で私たちをブラジルまで導いてくれたように思う」と言われるのも当然と思えます。
  
46年振りの再会
イメージ 5
 
礼子さん、美代恵さん姉妹と再会した山添さん、男性は姉妹の支援者・酒井さん、平安神宮にて
本年(2013年)3月、姉妹は支援者の酒井氏夫妻とともに京都を訪ねてくださり、ようやく、私たちは実際に出会うことができました。46年ぶりのことです。いろいろご苦労もあったでしょうが、とても素直で礼儀正しく穏やかな感じのお二人でした。きっと心を残して亡くなられた若いご両親が、遠いブラジルから子供たちを見守り続けておられるのでしょう。そして、細々としたエピソードを聞きますと日系社会の人々の温かい同胞愛の心にも感動します。もちろん、不運な環境の下にありながら立派に成長された遺児たちの努力を思い、今後の幸運を心より願っています。
 
この原稿は学生時代の先輩、富田眞三氏のご依頼で古い記憶をたどりながら書きました。
記憶間違いがあるかもしれませんがご容赦ください。
 
20138月記 
 
 
【筆者紹介】
山添洋子さんは、日本学生海外移住連盟の1965年第6次「南米実習調査団員10名中、紅一点としてブラジルに渡り、サンパウロ市の日系コレジオ名門の赤間学院・幼稚部において8か月の実習調査を行いました。
山添さんは奈良女子大を卒業後、(株)大阪商船三井船舶に入社。196768の二年間、同社の南米定期航路客船・あるぜんちな丸やぶらじる丸にスチュワデスとして勤務。
 1969年春、商船三井を退社、(財)日本万国博覧会協会に就職して大阪万博で活躍しました。
結婚後は二男一女に恵まれ、お住まいのある京都市で、長年高齢者問題、介護問題などのボランティア活動を続けています。 
 
 

↑このページのトップヘ