アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2014年01月

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メキシコ小話「ベッドの下」
 
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  メキシコ皇帝の寝室、 このくらい高いとベッドの下に色々隠せる(moblog.whmsoft.net)
 
 
 高位の英国貴族が二人エレガントな倶楽部で談笑していた。
ポロが趣味の貴族が「私の妻は誕生日に馬をプレゼントしてくれるらしい。
というのは、昨日、馬の鞍がベッドの下に隠してあるのに気がついたんだな」といった。
 
 それを聞いて、「あっ、そうか!」
ともう一人の貴族が満足そうに叫んだ。
 
「それなら、私の家内は車をプレゼントしてくれるらしいぞ。昨日、ベッドの下に車のセールスマンが隠れていたからな…」
 
 お後がよろしいようで…
 
 
 
 
 

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 私の散歩道シリーズ(テキサス)No.
         
          遺跡「一味違う牧場」
 
     
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                                            遺跡公園の銘板
 遺跡「一味違う牧場」と書かれた、立派な金属製銘板がエルム・クリーク通りに面する遺跡公園に立てられたのは昨年の暮れのことだった。
銘板の文面は次のとおりである。
  【この遺跡は1930年頃、サン・アントニオの裕福な家族が240エーカー(約100万㎡)の牧場内に建設した、夏の別荘である。1947年別荘は人手に渡り、豪華なリゾート・ホテルの一部となった。その際、28室と大きなプールが付加えられた。
 その頃、まだサン・アントニオ市外だった、このリゾート・ホテルは人々からカントリー・クラブと呼ばれ、料理とサービスが良いと評判だった。
 
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                      かつては、二階建てだった建物(銘板の写真による。撮影時期不詳)
1948年ホテルは閉鎖されたが、プールは1950年代末まで営業を続けた。その後、施設は1970年代にエルム・クリークの建設が開始されるまで、閉鎖されていた。 
独特な魅力、エレガントで閑静な環境を持った「一味違う牧場」は今やエルム・クリーク自身の歴史の一部となっている】
 
 これには驚いた。というのは、私は数回にわたって「私の散歩道シリーズ」の中で、エルム・クリークについて書いているのだ。エルム・クリークは息子一家が住む、サン・アントニオ市北部の住宅地の名前であり、鹿が住む、広大な敷地は私の散歩道なのである。そしてレポートの中で、この遺跡は19世紀のものだろう、と私は書いている。明らかな間違いである。お詫びして訂正したい。何とこれは1930年に建てられた、別荘だったのだ。
このサン・アントニオの裕福な家族は、メキシコ系だったようで、ランチョ(牧場)の名はスペイン語で「ALGO DIFERENTE-一味違う」と命名されていた。英語ではSOMETHING DIFFERENTである。
 
 
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                              現在の「一味違う牧場」の遺跡全景
 さて、この遺跡を見た最初の印象は、アラモの砦に似ているな、だった。外壁の石材が似ているのだ。そして、2013613日付け、私の散歩道シリーズNo.2「遺跡と鹿とブルーボネット」で遺跡をこう説明している。
 
 テキサス、サン・アントニオに定住した最初の白人は、1718年のフランシスコ修道会の宣教師たちだった。宣教師たちは原住民のインディアンにスペイン語とカトリック教を教え、農耕技術を指導するために、「伝道所」を建設した。そして18世紀末、伝道所は閉鎖されて、アラモと呼ばれるメキシコ軍の砦となっていたが、テキサスの父と呼ばれた、ステファン・オースティン大佐率いる、テキサス義勇軍がメキシコ軍を撃退、占領したのである。1835年の12月のことだった。  
 1836年春、メキシコの独裁者・サンターナ大統領率いる、2400の軍勢がアラモを反撃、防戦に務めたウイリアム・トラビス隊長、デイビッド・クロケット大佐以下、189名全員が戦死した。こうして「アラモの砦」はテキサス独立の聖地となった。
 
 スペインからテキサスへの移民は、1731年のカナリア諸島からの10家族が第一陣としてサン・アントニオに入植している。当時この一帯は、アパッチェ、コマンチェ族等の天地だった。入植者たちは伝道所を守備する、軍隊の影響力が及ぶ地域にしか入植出来なかったから、「私の散歩道」のようなアラモから遠くはなれた場所に荘園は建設出来なかった。
したがって、散歩道の荘園はテキサスが合衆国に併合された1846年以降だったのではないか。いや、ひょっとしたら荘園主はインディアン女を妻にしていたかも知れない。それならば、インディアンの攻撃は受けないから、などと考えながら散歩しているのである】
 
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                                      「一味違う牧場」遺跡を裏側から見る
 私が遺跡公園の遺跡が19世紀のものだろうと推測したのは、文字資料または科学的根拠があったわけではなく、屋根、ファサード、二階部分も無いほど破損がひどいため、相当古い建造物だと信じてしまったのだ。また遺跡公園の名前に影響されて、「遺跡と言うのなら古いものだろう」と思ったのである。お恥ずかしい次第だが、お詫びして訂正致します。
 
 さて、1930年頃とはどんな時代だったのだろうか、と調べてみた。
当時、サン・アントニオ市の人口は231,542で全米38位だったが、現在は132万で全米第7位に躍進している。
当時の米国の三大都市は、一位:ニューヨーク(693万)、二位:シカゴ(337万)、三位:フィラデルフィア(195万)だった。
 
 手元にある大判の「ニューヨーク・タイムズ一面トップ記事(1851年~2013年)Black Dog  & Leventhal Publishers, N.Y.」によって、当時の重要記事を探すと、1930年は歴史に残る重大ニュースは一件もなかった。
前年1929年は、1025日の黒い木曜日にウオールストリートの大暴落があった。
193232日、チャールス・リンドバーグの愛息(20か月)が誘拐殺害された。
1933年、セオド―ル・ルーズベルトがフーバー大統領の後を継いで、大統領に就任。
同年125日、合衆国憲法修正第18条が廃止され、禁酒法時代は終わった。
 エルム・クリークの前身「一味違う牧場」はそんな時代に建設されたものだった。
 
(終り)
 

東京都知事選が始まる。今週の週刊文春(123日号)のタイトルが冴えている。
題して、「細川担いで安倍潰し“原発ゼロ愉快犯”小泉の野望の勝算」
を花田紀凱の週刊誌ウオッチングがダイジェストで読ませてくれる。
下記のブログでご覧あれ!

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           アメリカ小話「理学療法士」
 
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                                        (fisioterapia.paginegialle.it/)
 晴れ渡った土曜日の朝、二人の女性がゴルフをプレイしていた。
最初のプレイヤーのティーショットは隣のホールへ飛んで行った。驚いた彼女は「フォアー」と叫んだが、遅かりし由良之助だった。
 
 ボールに直撃された男は、両手を股ぐらに当てて、いかにも痛そうに芝生の上をのたうちまわっていた。
 
 全速力で男に駆け寄った彼女は、自分の過失をわびるや、
「どうか私にお手伝いさせてください。私は理学療法士ですので、あなたのお許しがあれば、痛みを和らげることが出来ます」と今にも泣きそうな顔をして懇願した。
 
「う~ん、すごく痛むがすぐに治るよ…」と男は、握った両手を股ぐらに当てて、エビのように体をまげながら、息も絶え絶えに言った。
 
 しかし彼女は、お役に立ちたいと、熱心に頼み続けた。
根負けした男はようやく彼女に、「では頼む」とうなずいた。
 
 療法士は優しく両手を股から放して男を横たわらせると、ズボンのジッパーを下ろして、手を中に入れた。
 
療法士は男のあそこをマッサージし始めた。
しばらくして、彼女は優しく男に訊いた。「ご気分はどうですか?」
 
 男はまだ痛みにあえぎながら答えた。
「最高! だけど……君のボールが直撃したのは僕の親指なんだよ」
 
 お後がよろしいようで……
 

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        「JAP通り名を変えたサンドラ先生」下
  
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日系米国人退役軍人協会長としての功績により大統領市民勲章を授与されたテリー・シマ氏
javadc.org/)
 2004年に入って公聴会の日程が決まると、テリー・シマが指揮する「日系米国人退役軍人協会(JAVA)」に所属するベテランたちは、ジェファーソン郡の五人の郡政委員に対する手紙とE-メールによる、「JAP通り名を変える委員会」支援大作戦を開始した。
全米の日系退役軍人が洪水のように手紙、E-メールを「裁決に係る」五人の委員たちに送ったのである。
また、テリー・シマは全米のメディアとコンタクトを取り、「JAP通り名を変える委員会」の考えを代弁した。日系ベテラン即ち、Nisei Soldier (二世兵士)の言い分は、
「日本人を侮辱する言葉を付けた道路があることを思うだけで、大戦中我々が経験した
つらい思いを思い出す」に尽きた。
 
                  719日、広聴会開催
     
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 公聴会が開催された、ボーモント市のテキサス州・ジェファーソン郡庁ビル(citydata.com)
 公聴会の前日、テキサス地元紙は日系人側のニューワー弁護士談として、「両方が自分たちの主張が正しいと譲らない間は、通りの名は変わらないだろう」と悲観的な見方を示していた。
そしてジェファーソン郡の郡長(判事が兼任する習慣になっている)カール・グリフィス判事は、「JAP が人種的侮蔑語であると疑いの余地を残さずに証明されれば、私は名前変更に賛成票を投じるかも知れない」と記者に語った。
要するに当日の朝までは「どちらに転ぶか予断を許さない状況」だった。
 
 719日、いよいよ公聴会が開かれた。
意見を述べたものは、「JAP通り名を変える委員会」のタナマチ、クワハラを初めとする、ADL, JAVA, JACL, OCA,LULAC, NAACP, 陸軍36師団の代表者と442連隊のウイリー・タナマチとケリー・クワヤマ、テキサス大の学生・レベッカ・タナマチ、ボーモントの住民・ロレッタ・ギロリーさんたちだった。
 
そして最後にハワイ選出連邦上院議員・ダニエル・K・イノウエのジェファーソン郡郡長・グリフィス判事、及び郡政委員諸氏宛ての手紙を、サンドラ・タナマチ先生の義兄である、ノービン・パール博士が読み上げた。
 Inoue書簡は「JAP通り問題」を客観的に、冷静に論じて、グリフィス判事が述べた疑問「JAPは人種的侮辱語か?」に的確に答えるとともに、「442連隊を通じて、ハワイはテキサスと深い関係にあった」ことを示唆して、テキサス人の日系アメリカ人に対する考え方を根本的に変えたのである。以下イノウエ議員の手紙全文を紹介したい。
         
                            ダニエル・イノウエの手紙 
 
              
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 ダニエル・K・イノウエ上院議員 (topics.nytimes.com)
 
   アメリカ合衆国上院 ダニエル・K・イノウエ (ハワイ)
 2004716
 
 
   ジェファーソン郡 ボーモント市
 テキサス州・ジェファーソン郡庁内、郡政委員の皆さま
 ジェファーソン郡裁判所判事・カール・グリフィス二世閣下
 
 
 親愛なる郡政委員の皆さま
 2004719日、ジェファーソン郡郡政委員の皆さまは、ファネット・タウンに設置された、JAP通りと呼ばれる道路標識問題について公聴会を開催される、と理解しております。またこの道路標識は永年に亘って、論争の的になっていることも理解しております。
ファネットの住民の皆さまは、日本人米作農が道路を建設する際にお手伝いをしたこと、そして日本人米作農・マユミさんに敬意を表して、道路を「JAP通り」と命名したことも承知しております。
これらのことは、すべて皆さまの心からの誠意の発露であり、日本人米作農は疑いもなく、テキサスの人々からファネット・タウンの一員と認められたことを、誇りに思ったに違いありません。
 
 しかしながら、時は移り今の時代、JAPの意味は軽蔑的であり、侮辱的な意味合いを持つに至っております。
1941127日、日本による真珠湾攻撃以来、日本帝国国民は“JAP”と呼ばれるようになりました。そして「この言葉」は不当にもこの国に生を享けた、日系アメリカ人にも適用されています。
日系アメリカ人はアイルランド系アメリカ人、イタリア系アメリカ人またはアフリカ系アメリカ人と同様に純血のアメリカ人であります。“JAP”と呼ばれること、“JAP”という言葉の使用を容赦することは、たとえそれが悪意のないものであったとしても、我が民族にとって無礼であり、侮辱なのです。
彼らの忠誠心を証明し、民族的侮蔑を拭い去るために、日系アメリカ男子は欧州、アジア太平洋戦域において、アメリカ兵として従軍しました。
 
 442連隊はテキサスと特別な関係を持っています。何故ならば、フランスにおいて、我々はテキサス第36歩兵師団に編入されたのです。36師団の一部隊が、敵軍に包囲された36師団第一大隊の救出に失敗した際、442連隊がその任務を遂行するようにと命じられました。彼らは211名の友軍兵士を救出するために、その三倍の死傷者を出しながらも、立派に任務を成し遂げたのです。
 
 私はボーモントの公聴会で証言した、ケリー・クワヤマ及び、救出作戦で戦死した、これもボーモントの住民・サブロー・タニマチとともに、同じ442連隊・E中隊に所属していました。
元気だったころ、サブローは彼の家族、ジェファーソン郡、そして偉大なるテキサス州とアメリカ合衆国を誇りに思っていました。
 
郡政委員の皆さま、皆さまの偉大なる叡智を用いて、“JAP”という道路の名前を廃止し、誰にとっても不快ではない名前に変えることが可能になるよう、願っています。
この件についての皆さまのご配慮に感謝します。
 
              アロハ
              署名
              DANIEL K. INOUE
                                       アメリカ合衆国 上院議員
 
cc: Sandra Tanamachi
     Terry Shima
 
                      全会一致で「JAP通り名撤回」を承認
 
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タナマチ一家、後列左からレナ、ウイリー、サブロー、ジロー(サンドラの父)、ゴロ―、フミ、前列左からユリ、クマゾウ(父)、ウォルター、マサ、アサオ(母)、クミ、マリコ。イチローはカリフォルニアにいて留守(hirasaki.net/family)
 
  イノウエ議員の手紙は郡政委員諸氏に「JAPの意味すること」と「日系アメリカ人がどういう存在であるか」をはっきりと気づかせてくれた。もう一つ、「ハワイのよそ者が何の権利があってテキサス問題に口を出すのか」という疑問も氷解させた。
ところで公聴会で名前が出た、ウイリーとサブロー・タナマチはサンドラの親族なのか、いう疑問が生じた。サンドラ先生は彼らについて言及していないからだ。そこで調べてみると、次のことが判明した。
 
サンドラの父ジローはタニマチ・クマゾウとアサオの二男であり、長兄イチローと共に農場に残り、軍隊には行かなかったこと、彼の三人の弟、サブロー、ゴロ―とウイリーは442連隊に所属し、そろって合衆国最高の勲章である議会黄金勲章(Congressional Gold Medal)を受章していること、及びサンドラの母方の叔父・タイラ・ナカオも同じ勲章を受章していること等が判明した。
ということは、サンドラの母親が敵性外国人として収容所に収監されていた時期、彼女の実弟と後義弟となるタニマチ三兄弟も欧州戦線で米兵として、戦っていたことになる。
 
 さて、公聴会に戻る。イノウエ議員の手紙の言葉「日系アメリカ人は純血のアメリカ人であります。“JAP”と呼ばれることは、たとえそれが悪意のないものであったとしても、我が民族にとって無礼であり、侮辱なのです」が五人の郡政治委員の胸を打ったことは間違いなかった。
 
 公聴会の終了後、五人の委員は住民側の反対にも係らず、全会一致で「JAP通り名撤回」を承認した。自治体ではないファネットの住民に「住民投票」という選択肢はなく、この種の決定権は住民が公選で選んだ、郡政委員(郡会議員)が持っているのだ。
         
       442連隊とダニエル・イノウエ
                
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          左)442連隊の日系兵士(think.quest.com) 右)名誉勲章 (homeofheroes.com)
 ここで442連隊について触れておきたい。
442連隊は、米国陸軍史上最多の勲章受章者を擁した部隊だった。連隊として7回の大統領感状を獲得した上、米軍最高の名誉であり、大統領が叙勲する名誉勲章(Medal of Honor)受章者はサブロー・タナマチ、イノウエを含む21兵士に上った。
連隊の“ニックネーム”は「名誉の負傷勲章部隊-Purple Heart Battalion」であり、連隊のモットーは「当たって砕けろ!-Go for Brokeであった。そして442は米軍の連隊のなかで、最も戦死者数が多かった英雄的連隊として、教科書に載る存在なのだ。
 
 同隊員の一人、ダニエル・イノウエ大尉はハワイ大学在学中、陸軍に志願し442に入隊。戦闘で右腕を失ったため、医師を断念して弁護士に転向、政治を志した。イノウエは1959年、日系人初の連邦下院議員となり、後上院に転じ50年以上の連続当選を果たした。イノウエは2010年、上院最古参議員として、大統領継承順位3位の上院仮議長に選出された民主党の重鎮だったが、201288才の生涯を閉じた。
 
        新しい通りの名前は…
 さて公聴会後、グリフィス判事はマユミ兄弟に敬意を表する、「歴史的しるし-marker」を通りにつけるようファネットの住民に提案した。数か月後、四つの候補名、Mayumi Road, Japan Road, Japanese Road, Boondocks Roadが住民投票にかけられた結果、170票中、Boondocks100票を獲得した。こうしてJAP通りは、Boondocks 通りになった。なお、Boondocks 10年前に廃業した地元の「なまず料理店」の名前だった。
 
 こうして、サンドラ・タナマチ先生の宿願は叶い、「彼女の14年間の戦い」は終わった。
(下)の終り
 

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