アラモ・シティ(サン・アントニオ)からビッグ・アップル(ニューヨーク)へ(4)
旅3日目・12月21日(月)天気:雨のち曇り 14/10℃
ジャックソン・シティのホテル・フェアフィールド・マリオット106号室で目覚める。雨が降っていた。8時、一階でビュッフェの朝食。フルーツ、ヨーグルトとオートミールを食べる。9時、ホテルから37キロの地点にある、テネシー州・クロケット郡のアラモ・シティに向かう。高速412号線を30分走って、郷土の英雄・デイヴィッド・クロケット終焉の地・アラモの名を冠した、人口2.108人の市に着く。市役所は郡裁判所の建物内に入っている。トイレに入ると、たまたま隣の紳士が市長さんで、「東京から来た」と言ったところ、「遠いところから、よく来てくれた」と大変喜んでくれ、記念写真に応じてくれた。アラモ・シティを一歩外に出ると、冬にも関わらず青々とした田園地帯が広がっていた。
ところが、ドアに「急用で外出中。ご用のかたは電話してください」との張り紙があった。さっそく息子の剛が電話したところ、ただ一人の博物館係員は「体調が悪いので自宅で休んでいる」とのことだった。
博物館を開けてくれた、男性は隣接する中学校の用務員らしい人だったので、内部の説明は受けられなかった。しかし、やっと念願が叶ってクロケットの住まいを隅からすみまで見ることが出来たのは望外の幸せだった。
息子と私はクロケット関係の書籍と洗い熊の帽子、Tシャツ等を購入して、次の目的地、ナッシュビルに向かった。なお、我々の見学中、他の訪問者はなかった。
1.1934年、ラザフォードの東方8㌔に住む農民がラザフォード銀行にやってきて、頭取のMr. Elrodに彼の隣人がデイビッド・クロケットの旧家を取り壊そうとしている。ぜひその旧家を銀行で買ってくれないか、と頼んだのである。すると、頭取は35ドルで旧家を購入し、家を解体してラザーフォードに持ち帰った。その後、不景気だったことや第二次世界大戦の勃発により、旧家の再建は延び延びになり、現在の場所に再建されたのは、1955年のことだった。
2. 1834年の下院選挙に落選してラザーフォードの自宅に戻ったクロケットが、テキサス出発前に書いたと言う文書が紹介されている。但し出典は明示されていない。
「私の政治生活は終わった。選挙は230票の差で敗北した。ジャクソン市のユニオン銀行の幹部(複数)によると、ミスター・ハンツマン陣営は選挙民を一票25ドルで買収した、と言う。これは実に良い金高で通常なら一票2ドルで買収できる」
と彼は書いているが、それは一般的な話で、貧乏だったクロケットに選挙民を買収する金はなかった。が、彼らにラム酒を振る舞った話はクロケットが好んで語ったので、いつしか伝説となった。
11時半にラザーフォードを出て、2時半過ぎにテネシー州都ナッシュヴィルに着く。 腹が減っては戦ができぬと、レストランを探したが、どこも3時には閉店してしまう。やっと、見つけた店は、415 Union St. にあった。住所が店名になっている[415 Union]はアメリカ料理の店だった。南部スタイルのポーク・チョップがおすすめだというので、食べてみた。「空腹は最高のソース」だから食べられたがひどいものだった。店を出るとき気付いたのは、レジの壁に「Japs降伏!」という1945年8月16日付号外が張ってあったことだ。後で調べると、Union 415 は米国陸海軍のベテランが集う店だった。こういうアメリカ人たちもいるのだ、と認識を新たにしたのだった。
ナッシュヴィルの宿はダブル・ツリー・ホテルにとった。車を駐車場に入れ、プリンターズ通りの、バーボン・ストリート・ブルース&ブーギー・バーと言う、長い名前のミュージック・バーまで歩く。店に入ると、60代の味のある男性がエレキを弾きながら、チューバの伴奏でブルースを歌っていた。実に良い雰囲気のバーである。タンク・トップに黒の肩掛けを羽織った、バーテン兼ウエイトレスのすごい美女が踊るように注文を取り、飲み物を準備し、配っていた。アメリカ人はビールしか注文しないので、我々はカクテルを注文して彼らと差をつける。カクテルを飲みながら、本場もののブルースを堪能する。
(この項終わり)