3、6、⒓個入り
たまたま二人がコンドームの陳列されている棚の前を通りかかると、
息子は「パパ、これはな~に?」と質問した。
「学校の保健の授業で教わったよ」
と訊いた。
と言った。
と言った。
「これはね、結婚している男性が使うんだよ。1月に1個、2月に1個、3月に一個……」
アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話
3、6、⒓個入り
たまたま二人がコンドームの陳列されている棚の前を通りかかると、
息子は「パパ、これはな~に?」と質問した。
「学校の保健の授業で教わったよ」
と訊いた。
と言った。
と言った。
「これはね、結婚している男性が使うんだよ。1月に1個、2月に1個、3月に一個……」
アラモ・シティー(サン・アントニオ)からビッグ・アップル(ニューヨーク)へ No.5
クロケット旅籠と彼の生誕地
午前6時、テネシー州ナッシュヴィルのダブル・ツリー・ホテルで目覚める。今日の行程はワシントンDCまで1,520㌔(945㍄)の長丁場なので、7時朝食抜きでホテルを出発。
州際高速道40号線に乗って、モリスタウンのクロケット旅籠(Tavern)を目指す。距離は365㌔。
モリスタウンは人口29,000だが、かなり大きな市である。クロケットの父親・ジョンが1794年にテネシー州のノックスヴィルとヴァージニア州のエイビンドンを結ぶ街道沿いの、この場所に建てた木造の旅籠兼レストランは、当時大勢の旅人が訪れた、と言う。
修復後本来の場所に復元された、クロケット旅籠は町はずれの緩やかな丘が続く田園地帯にある。旅籠は昨日訪ねた、クロケット最後の住まいと同じ造りの木造の建物だが、旅籠だけあって一部は三階建でかなり大きい。
ところが、国立史跡に指定された博物館にも関わらず、ここも閉まっていた。誰もいないうえに、案内もなかった。我々は外から建物を観察したが、窓、出入り口は鎧戸で密閉されていて、中をのぞくことは出来なかった。
旅籠の裏手は一段低いがけになっているので、その部分は三階建てだが、正面からは二階建てにしか見えない。裏手には馬車の車庫があった。Wikipediaによると、建物は1958年に復元されている。
その4年前にTV番組・ディズニーランド内で「デイビイ・クロケット物語」が5本のシリーズとして放映され、全米で大人気を博した影響でこの旅籠も復元されたが、今では忘れられた存在になっているようだ。
デイビイが8才から16才の間、数々の命がけの冒険と試練を経験したのがこのクロケット旅籠時代だった。多感な少年だった、デイビイは旅籠を訪ねる旅人たちが語る冒険、旅行談を聞いてアメリカ中(彼はそれを世界と言っていた)を探検したいという、願望を持つようになった。
その後3年間町から町へと働きながら放浪したデイビイは、ある日たくましい若者になって、クロケット旅籠で食事するために戻って来たのである。
すると、給仕していた彼の姉が、「デイビイじゃないの、あんたは?」と気付いて……
11時息子と私はクロケット・タバーンを後にして一時間弱の近間にある、ライムストーン市(村と呼んだ方が相応しい小村)のクロケット生誕地公園に向かった。
公園の正式名称は州立デイビイ・クロケット生誕地公園(テネシー州)と言う。公園に近づくと、この一帯はノリチャッキ川の川畔に広がる平原で、遠くに木造の小さな家屋が見えて来る。かの有名な「デイビイ、デイビイ・クロケット…」の歌は確か山頂の家、と歌っているが、あれは脚色だったのだ。私は熊狩り名人クロケットの故郷は、深山幽谷の大森林だと思っていたが、実際はなだらかな丘に木々が茂り、低地には大小の川が流れる、風光明媚な田園地帯で、クロケット生誕地は海抜500メーターの平坦地にあった。
熟練したハンターだったクロケットが活躍した東テネシーは、当時熊、鹿、洗い熊等が棲息する、人跡稀な辺境だった。クロケット家の男の子たちは、3才からライフルの射撃を習わされたので、皆優れた鉄砲使いに育って行った。中でもデイビイがずば抜けて上手だった。
ノリチャッキ川の50㍍南に位置する、生家は閉まっていたので、詳しい情報は得られなかった。そこで後日クロケットの自伝を読み直してみた。すると、彼は自分の誕生をこう書いている。
「私が出生したのは、ノリチャッキ川の川畔のライムストーンだった。
私は1786年8月17日、ジョンとレベッカ・クロケットの五男坊として生まれ、兄が4人、姉が1人、弟と妹が3人いた。計9人の子供をかかえて、一家は常に貧乏だった。」
続いてデイビイはライムストーンの最初の思い出をこうつづっている。
それは彼がまだ鉄砲の使い方を知らなかった頃の話というから、3才で熊を仕留めた、という伝説を持つ彼の3才未満の頃だったろう。
4人の兄と近所の友達の5人はデイビイを岸に残して、父親のカヌーで川に漕ぎ出して行った。しかし、強い流れに流されて、兄たちの意志とは反対にカヌーは川下に下って行った。下流には滝があるので、兄たちは大声で助けを求めていた。小さいデイビイも事情を察して泣き叫んでいた。すると、近所の農夫が川に入って、子供たちを救出してくれたのだった。
ところが、これにはデイビイ得意の誇張があって、実際は滝はなく急流岩を食む難所だった。それでも、危険なことには変わりなく、この事件後、父ジョンは難所から遠く離れた、ノリチャッキ川の10マイル上流に引越したのである。
そして次に移ったのが、先ほど我々が訪れたモリスタウンで、父ジョンはその地で旅籠を始めたのである。
州立公園には広大なキャンプ場が付属しているが、ここも無人だった。キャンプ場の冬季閉鎖に合わせて、クロケットの生家兼博物館も閉鎖されるのである。掲示板に来年5月16日開園との通知が貼ってあった。要するにクロケットの生誕地がキャンプ場に付属しているのである。そこで調べて見ると、詳しい事情が判明した。
生誕地公園の土地は1782年、ジョージ・ジルスピーなる人物が購入したとされる。ジョン・クロケットは彼から借地して住宅を建て、1786年その家でデイビイが誕生したわけである。デイビイの生家と言われる、粗末な家の脇に現在も約1米四方の平たい自然石が置かれている。これはクロケット住宅の礎石だった。
時代は下って1824年、今度はこの土地を買ったサムエル・ストーンサイファーが、クロケット住宅を解体して、その用材を再使用して彼の住宅を建てたのである。
従って当時解体されたクロケット住宅の図面はなく、家の原形も今となっては分からない。
1950年代後半にクロケット人気が頂点に達した頃、地元の人々は、「クロケット生誕当時の雰囲気を残す、19世紀に建てられたストンサイファー家」を模倣、かつ旧クリケット宅の用材を用いて、この“生家”を建て直したのである。従って、この州立公園はクロケット生誕地ではあるが、この家は彼の“生家”を想像して建てた、レプリカに過ぎない。
生家の窓は閉まっていたが、入り口のドアは鉄格子だったので、内部の写真は撮れた。
この家も二階があるが、階段ではなくはしごがあった。なお、クロケットの三軒の家はすべて大きな暖炉を持っていた。この辺りの冬は最低気温が-15℃にも下がるのだ。
さて先を急ぐ我々はクロケット生誕地に別れを告げ、ワシントンへ向かった。州際高速40号線を北上すると、テネシーとヴァージニア州境の町・ブリストル(人口27,000)手前で時間帯がセントラルからイースト(東部)に変わり1時間時計を進めた。腹が減ったので、ネットで調べたアメリカ南部料理のレストラン・イーツ(Eatz)に入った。私はこの辺りの名物である、ナマズのフライを注文した。ナマズを食べた記憶は定かではないが、白身魚のナマズは軽い食感で匂いもなく、タルタル・ソースと合う、すこぶる付きの美味だった。剛はでかいステーキを食べた。
食後、こじんまりした市の中心部をぶらついた後、ランクルに戻り、一路ワシントンを目指す。走り出すと、まもなく夜の帳が降りて景色は見えなくなった。我々はアパラチア山脈の東側に沿ってヴァージニア州、ペンシルベニア州を縦断して21時半、ワシントン・DCに入った。
Perry`sと言う,およそ日本レストランらしくない名前の日本レストランで、ニューヨークから友人のコンサートを聞きに来た、孫のRickとガールフレンドのTaylorと合流して再会を祝す。乾杯の後、4人で歓談しながら寿司をたらふく食べた。実に旨かった。
今夜の宿はワシントン・ヒルトン。一日に1,520㌔の移動で流石に疲れた剛と私はシャワーを浴びて12時過ぎベッドにもぐり込んだ。明日はワシントンを観光して、孫たちが待つニューヨークへ向かう予定。 (この項終わり)
「国家緊急事態発生」
ジョージ・W・ブッシュはカナダ首相のポール・マーティンに直通電話を掛けると、国家緊急事態が発生した、と告げた。
「わが国民お気に入りの避妊用具の供給が事実上停止したのです。これは国家緊急事態です。そこで貴殿にお願いがあります。この困難な時期を乗り切るために、百万個のコンドームの送付をお願いしたいのですが、可能でしょうか、マーティン首相?」とブッシュは懇願した。
「社長、お願いがあります。緊急に百万個のコンドームが必要になりました。そしてそれをアメリカに送って欲しいのです」
「コンドームのパッケージにMade in Canada, サイズ 中 と印刷してください」
「低次元な共和党予備選」
(CNNNews)
米大統領予備選の共和党候補のドナルド・トランプ氏は党公認候補指名をほぼ確実視されている。だがその一方、彼の遊説、ディベートにおける過激発言は、まるでヘイト・スピーチである。米国内はもちろん、世界各国でもトランプの発言は世界を動揺させ人々の不安と不信を増大させている、と懸念されている。
続いて彼は「ルビオ氏は私の手と“あれ”は小さい、と言ったが、これでも十分に機能しているのでまったく問題はありません。保障しますよ」とTVに向かって断言した。すると会場は大爆笑の渦に包まれた。まるでお笑い番組である。
米国のニュー・レパブリック紙のガブリエル・スナイダー記者は、「米国の政治はペニスの大きさを論じた」とツィッターに書き込んだ。多くの人々がディベートは子供には見せられない、と慨嘆していた。米国の中学、高校は先生はディベートを見るように生徒を指導するのである。
一部のトランプ支持者たちは、トランプの「手に関する」所見は彼の力強さ、男らしさを証明したものと受け取った。が、他の人々は、これは彼の「自信の無さ」を表している、と感じていた。
「トランプ氏の両手を良く見てください。小さいでしょう。手のサイズは男性のシンボルの大きさに比例する、と言われています。彼の身長は185センチですが、彼の手は150センチの男性に相応しい大きさです」
こんな調子だから、共和党幹部の本命だった彼は、3月で早くも予備選レースから撤退せざるを得なくなったのである。
その効もなく3月22日(火曜)の予備選は、不法移民に敏感なアリゾナ州民は予想通りトランプを大勝させた。ただし同日のユタ州予備選はクルーズが勝った。筆者はその写真を持っているが、将来のファース・トレディーに敬意を表して掲載は遠慮しておく。
(Don_Vito_08@realDonaldTrump.com)
一方、トランプは妻のヌード写真公開に対抗して、自らのツイッターにメラニア夫人と顔をゆがめたクルーズ夫人・ハイディさんの写真を並べて掲載し、「百聞は一見にしかず」と反撃したのである。言わんとすることは明瞭であるが、ハイディ夫人はメラニア夫人と違って、かつてブッシュ政権で要職についていたインテリである。
その翌週ウイスコンシンで開催された、CNN-TV主催の共和党ディベートで、トランプとクルーズはヌード写真について花火を散らした。まさにどっちもどっちということで、多くの識者たちは、こんな低次元な大統領選挙は史上初めてだ、とあきれている。
4月5日までにワシントン・コロンビア特別区、プエルト・リコ自治領、グアム準州等を含む州その他40で民主、共和両党の予備選挙と党員集会で代議員選挙が行われた。民主党はクリントン夫人が優勢だが、共和党は4月に入ると、フロント・ランナーのトランプが北ダコタとウイスコンシンの二州でクルーズに46対6で完敗した。
残る15州は735代議員を持っている。そのうち勝者総取り方式を採用する9州は497代議員を有している。6州は候補者の得票数に比例して代議員を配分する、比例方式をとっているので、票が割れる可能性が高い。
ほとんどすべての共和党州支部の代議員は予備選挙或いは党員集会で「誰を支持するか」を表明しその候補に一票を投じると誓約している。一般投票者及び党員集会の場合は党員が、各候補の支持を表明している代議員に票を投じるのである。
即ち、5州の代議員数の合計は112名だが、その中にすでに意思表示を済まして、選挙された代議員が30名もいる。彼らを差し引くと、投票を保留している代議員は82名になる。
この5州の他に西ヴァージニア州だけは共和党大会当日に意中の候補者」に直接投票する、「直接選挙方式」を採用している。これが34代議員いる。要するに党大会には82∔34=117票の隠し玉があるわけだ。
ということは、トランプとクルーズのせめぎ合いが僅差になった場合、この117票がものを言うわけである。
では、党大会における投票の結果、過半数を獲得する候補がいない場合(共和党上層部―党エリートとも言うーはそれを望んでいる)は、決戦投票が行われる。この際、代議員は、「誓約した候補者とは異なる候補」に投票できる。おそらく舞台裏の取引が活発になる、と思われる。何が起こるか分からない。
「仕事やめたいの」
(cinetfaro.files.wordpress.com)