アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2017年06月

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      秩父、長瀞、寄居への小さな旅
                       京亭の鮎づくしを堪能

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秩父、長瀞、寄居への小さな旅の宿は、3ヶ月前から予約する必要があった、寄居町の旅館・京亭だった。四部屋の小旅館だからでもあるが、京亭は大の食通だった池波正太郎の「よい匂いのする一夜」に国中の名旅館、名ホテルと肩を並べて紹介されている、「知る人ぞ知る名旅館」だからでもある。

 だが、大学時代の仲間である佐藤喬君の姉上の女医・中村蘭子先生が寄居町で60年も医院を経営されていた関係で、鮎解禁二日目に、我々早大海外移住研OB10人組は、旅館を借り切ることが出来たのである。
寄居に行って分かったのだが、老いてなお美しい「蘭子先生」は人口34,000の寄居町で知らない人はいないほど、「町民に慕われる名医」なのである。
 
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6月初頭、学生時代の仲間たちと秩父、長瀞、寄居へ「小さな旅」をして来た。
自宅のある府中から秩父駅までの乗車時間はわずか1時間36分だったが、京王、南武、青梅、八高、西武池袋、秩父鉄道の6社線を乗り継ぐ旅だったから、ある意味「大旅行」でもあった。乗り換え時間を勘定にいれると、2時間26分もかかった。しかも青梅、八高、西武池袋線は単線の上、ドアの開閉が「手動扱い」になっているのが珍しく、いかにも「遠くへ来たな」と言う気分に浸れるおまけまで付いた。なお、秩父鉄道以外の線はすべて「PASMO」が使えた。
 
 秩父駅前で9人の仲間たちと落合い、駅中レストランで名物だという「麦とろめし」とそばを食べた。絶品だったのは、酒の肴に注文した、鶏皮のから揚げ。初めて食べたが、実に美味かった。
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食後、駅近くにある、創建2100年の秩父神社に参詣する。この神社は家康が寄進した、左甚五郎作と伝えられる「三猿」の長押彫刻があることで知られている。ところが、秩父の三猿は日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」に対して逆説をとり良く見、良く聞いて、良く話そうと教える絵馬であり、「お元気三猿」と通称されている。言い伝えによると、家康はこの矛盾する二つの教えを巧みに使い分けた、という。いかにも家康らしいエピソードではある。
 
 ところで神社の由緒書きによると、秩父神社の祭神・秩父大神は、かつて武蔵国の神社総社であった、府中の大國魂神社に「四之宮」として祀られている。なるほど、55日の大國魂神社の例大祭である「暗闇まつり」の主役級である、八基のお御輿のうちの一つ「四之宮」は、秩父神社ゆかりの神輿だったのだ。かくして府中育ちの筆者にとって、秩父はにわかに身近な存在になったのだった。
 
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続く旅程は長瀞ラインくだりだった。秩父から長瀞駅まで秩父鉄道で移動。金曜日だったが外国人を含む観光客が多かった。駅からバスで荒川上流へ移動後、20人乗りのはしけで1時間急流を下る。両岸の巨石、奇岩の景色を水しぶきを浴びつつ楽しむ。この後、また秩父鉄道に乗って、今夜の宿となる、「沈流荘・京亭」のある人口34,000の埼玉県寄居町に到着した。
 
「埼玉県の北西部にある寄居町は、秩父市の北東に位置している。
奥秩父の山脈(やまなみ)を水源とする荒川が、秩父市の長瀞をながれてきて、その川幅が大きくひろがるあたりに寄居町はある」。と池波正太郎は「よい匂いのする一夜」で簡潔に寄居を説明している。
 
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寄居町の荒川河畔から鉢形城跡を正面から見渡す絶好の位置に亰亭はあった。荒川の川幅が大きく広がる、ということはここから関東平野に入ったことを示している。そして川向こうはもう群馬県になり、少し北には真田藩の沼田城、その先には名胡桃城があったのだ。
 
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入口に京亭の看板がある宿に着くと、玄関に「佐々紅華」の表札がかかっていた。我々は普段着の中年の女性の出迎えを受けた。品のよいご婦人だったので、「女将の佐々ゆき江さんですか?」と訊くと、「そうです。お待ちしていました」と、にこやかに笑みを返してくれた。ちいさな宿なので、格式ばらないところが新鮮でよかった。
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佐々京華の姪御さんが、紅華の養女となって、宿を引き継いだことは「よい匂いのする一夜」で学習済みだったのである。それが女将のゆき江さんなのである。
 
ところで……。
「月はおぼろに東山、霞む夜ごとの篝火に、
夢もいざよう紅ざくら。
忍ぶ思いを振袖に、
祇園恋しや、だらりの帯よ」。
 
 これは昭和初期に藤本二三吉が歌って大ヒットした、ご存じ「祇園小唄」である。この名曲を作曲した、佐々紅華が奥さんの生れ故郷であった、寄居をいたく気に入って建てた終の棲家が、「旅館京亭」になったのである。もともと旅館にするために建てたものではないので、4部屋しかない。だが、紅華の好み通り造園した庭園は、釣り人の見える、眼下の荒川と川向こうの断崖上の森が借景となり、うっとりするような眺めを作っている。
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 一行は檜の香りが漂う風呂で汗を流した後、浴衣に着替えて見晴らしの良い二階の12人が座る椅子席のダイニング・ルームに陣取った。そして、ハウスワインならぬハウス清酒・「鮎の宿・京亭」で乾杯。
いよいよ待ちかねた、鮎うるか、鮎煮浸しで始まる、鮎づくしを堪能したのである。下記に献立を載せておこう。
お献立
先 付   鮎うるか、 鮎煮浸し
前 菜   新水雲、黒ばい貝、合鴨ロース、蚕豆(そらまめ)、鮎骨煎餅
強 肴   鮎一夜干し、昆布旨煮
お造り   鮎刺身、妻一色
冷し煮物  玉子豆腐
       海老、順采、姫おくら、マイクロトマト、美味出汁
焼き物   天然鮎塩焼き、はじかみ、蓼酢
中 皿   白身魚すり身石焼
揚げ物   稚鮎天婦羅、川海老、蓼景
御 飯   鮎飯、なめこ椀、香の物
フルーツ  季節の果物
 緑字が鮎料理である。
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 圧巻だったのが、鮎飯である。池波正太郎は、「よい匂いのする一夜」で京亭の鮎飯をこう書いている。
「最後に、鮎飯が出た。これは、ちかごろ、めずらしい。昔は、玉川の岸辺の料亭でよく食べたものだが、、私にとって、戦後はじめての鮎飯だった。
鮎を、まるごと、味をつけた飯の上へのせて蒸らし、食べるときは魚肉をほぐし、飯とまぜ合わせて食べる。
 鮎の芳香が飯に移って、実に旨い」。
 
 夕食の後、一階のサロンに移って、各人思い思いの「酒」のグラスを手に、深夜まで学生時代の思い出話にふけったのである。何しろ、他の宿泊客はいないので、気兼ねなしにくつろげる宿なのだ。
 
翌朝5時、京亭の離れで目覚める。全員、白河夜船だったので、そうっと起きてひと風呂浴び、散歩に出た。河岸の段丘上の道路を歩くこと10分、川に降りる道があった。木々の間を3040mts.下って河原に着く。そこから大きい石がごろごろして歩き難い河原を100mts.歩いて川のほとりまで行ってみる。水は綺麗に澄んでいた。なるほど、鮎が生育する川だけのことはある。
 
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 7時、宿に帰ると、半分は散歩に出ていた。8時、全員集合して定番の旅館朝食ではない、心のこもった朝食をいただく。即ち、湯豆腐、とろろ汁、あじの干物とご飯とみそ汁だった。食後、荒川にかかる正喜橋(145.9mts)を渡って、川向うの鉢形城跡を見学に行った。
鉢形城は前方を荒川に、後方を深沢川に挟まれた断崖上に築かれていた。15世紀ごろ、この地は交通の要衝に当たり、上州や信州を望む戦略的に重要な地点だった。1476年、この地に本格的に築城した武将は、関東管領であった山内・上杉氏の家臣長尾景春だった。その後小田原の本家・北条氏康の三男の氏邦が鉢形城主になっている。
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我々は広大な城跡を歩き廻ったが、土塁、堀、土橋等が再現されている。面白かったのは、荒川の河原に多い、丸い大きな石で石垣が築かれていたことだった。
 
鉢形城を後にした我々は、寄居駅前の土、日しか開けない名物そば屋・上総屋でてんぷらそばを食す。噂にたがわず旨いそばだった。寄居駅は現在も交通の要衝で、八高線、東武線、秩父鉄道が通っている。私は「蘭子先生」からのプレゼントの清酒「鮎の宿・京亭」をぶら下げて八高線に乗車、八王子へ向かった。
良い旅だった。(終わり)

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               「それを言いたかった
 
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                                        写真:www.expreso.press.com

80才の老人が掛かりつけの医師を訪ねて、こう言った。
「先生、喜んでください、私の25才の妻が妊娠したんですよ」。
 
 すると先生は、「こう言う話があるんですよ」と話し始めた。
「ある男が狩猟に行きました。ところが、男は間違って、鉄砲ではなく傘を担いで行きました。
すると、突然クマが男を襲って来ました。彼は傘をクマに向けて発射して、その場で射殺したのです」。
 
老人は、「そんなことはあり得ないよ。誰か別なやつが撃ったんだよ」と言った。
 
「それそれ、それを言いたかったのですよ、私は……」。
と医者は言った。
 
お後がよろしいようで……

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      「ブラジルを理解するために」その4
                             連載エッセイ4
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写真:(www.pezquisaitakiana.com)
    イタリアを知ればブラジルもわかる
  
 執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)
 【まえがき】「イタリアを知ればブラジルもわかる」とは良い得て妙である。2億の人口を持つブラジルには4~5000万のイタリア系住民が住んでいる。そしてブラジルは種々の面でイタリアの影響を強く受けている。その点、メキシコの場合、宗主国だった「スペインを知ればメキシコもわかる」とは言えない。メキシコはあまりにも個性が強すぎるからだろう。では、「イタリアを知ればブラジルもわかる」理由を下記のエッセイでご確認ください。(富田記)
 
ジェトロ・サンパウロ所長として、2003年11月に赴任した。ブラジルには、それまで10回以上出張していたが、駐在は初めての経験であった。当初の予想に反して、極めてスムースにサンパウロ生活に融け込むことができた。その理由を自分なりに考えてみたが、イタリアのミラノ駐在経験が役立ったというのが結論である。ブラジルは2億人を超える人口を持つ世界第5位の人口大国であるが、移民によって成り立っている国である。数多くの移民の中で、一番多いのがイタリア系移民なのである。友人のイタリア貿易振興会のサンパウロ事務所長に言わせれば、8分の1の血の交わりまで入れると4,000~5,000万人くらいになると言う。日系人も150万人くらいと言われているが、同じ計算で行くと4~500万人になろう。
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サンパウロの名物建築を見てもイタリア系の建築家の設計によるものが多く、ブラジルのショッピングセンターに行くと、店舗のデザインや色使いは極めてイタリア的である。ファッション、ライフスタイル、あげくは、人々の明るさ、楽観主義、モノの考え方までイタリア人によく似ている。容易に融け込めたのはそのためである。イタリア移民が本格的に始まったのは、1820年で、その後1837年にも移住の大きな波があった。1887年から1920年にかけて外国人移住者のラッシュを迎えるが、その半分以上がイタリアからの移民であった。サンパウロにはイタリア系がたくさん住んでいる居住区がある。例えば、ブラス、ベシーガ、ボン・レチロ等界隈である。イタリア人設計による建築も傑作が多い、例えば、トマソ・ベッツィによるイピランガ博物館、セントロにあるマルティネッリ・ビルやエジフィシオ・イタリア(イタリア・ビル)はパウリスタの誇りである。市立劇場(テアトロ・ムニシパル)、市立市場(メルカード・ムニシパル)やサンパウロ州立美術館(ピナコテカ)を設計したラモス・アゼヴェドの設計事務所には多くの優秀なイタリア系建築家・デザイナーがいた。
 
絵画の分野でもイタリア系の活躍はめざましい。ピナコテカに行くとカヴァルカンティ、ポルチナッリ、アニータ・マルファッティなどの作品が所狭しと展示されている。経済分野でも一世を風靡したマタラッゾ財閥もイタリア系であるし、政治家、経営者、スポーツ選手も輩出している。食文化の面でも、ワイン、さまざまなチーズ、ルッコラやズッキーニなどの野菜、オリーブなどイタリアがブラジルの食生活の充実に与えた影響は計り知れない。イタリア・レストランもサンパウロにはたくさんあり、値段も高級である。
 
一方アルゼンチンやウルグアイをみると、イタリアン系がスペイン系を押しのけ、乗っ取った感があるし、チリでもイタリア系は活躍している。私はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ペルーの5カ国を「チャオ圏」と呼んでいる。イタリア語の挨拶言葉の「CIAO」が日常的に使われるからである。北米のメキシコでも「チャオ」が使われている。
 
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写真:(www.conozcamobrasil.com
2006年1月に家内とブラジル南部のベント・ゴンサルヴェスというイタ
リア系が多い町に旅行する機会があった。そこには、イタリア移民の歴史を映像とジオラマと案内者の語りで再現する「エポペイア・イタリアーナ」(イタリア叙事詩)という小さなテーマ・パークがあった。ヴェネト州出身のラザロという架空の人物がブラジル移住を決意し、出資者を募り、勇躍ブラジルへの移住を決意する。ポルトアレグレに上陸、悪戦苦闘して、最後は大邸宅を建てるというあっけらかんとしたサクセス・ストーリーである。それを見てガルボン・ブエノの日本移民史料館を思い出した。日本人移住者は総じて成功しているのになぜ史料館のプレゼンテーションはかくも暗いのであろうかという疑問である。国民性の違いを認識した旅であった。
 
ブラジルは移住者によって成り立つ国であり、宗主国ポルトガルは当然のこと、イタリア、ドイツ、スペイン、アラブ、アフリカ系等も頑張って国作りを行ってきた。当然日本人移住者のブラジル社会に対する貢献も絶大である。ブラジルを理解する上で、イタリア人や第2の移住国ドイツ人の発想法を学ぶことが有益と考える。
 
(日本ブラジル中央協会発行、「ブラジル特報 2010年1月号」を加筆修正したものである)            2015年10月下旬

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             同じサービス
 
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写真:(www.pedropolis.com)
 マルガリータに7番目の息子が生まれた。
彼女は「これから数か月『夜の営み』はお預けですよ。このお金でどこかに行って遊んできなさいな」と亭主のロベルトに小遣いを渡した。
 
いそいそとアパートの部屋を出たロベルトは、エレベーターの前で隣の奥さんに会った。
「お出かけですか?」と問われて、彼は細君から言われたことを隣人に話した。
 
「そんなところに行くことないわよ。あたしが同じサービスをしてあげるから」
と隣の奥さんはロベルトを自宅へ連れて行った。
 
 ことが終わってすっかり満足したロベルトは、隣人にお金を渡した。
 
 帰宅したロベルトが隣人から受けたサービスを細君に報告すると、
「お金?」と言って手を差し出した。
「隣の奥さんに払ったよ」とロベルト。
 
「まぁ!ひどい女ね、彼女が去年お産したとき、あたしは同じサービスを彼女の旦那にしてやったけれど、一銭も取ってないのよ」。
とマルガリータは大憤慨したのだった。
 
 お後がよろしいようで……。

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         トランプ氏パリ協定から離脱
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写真:(www.atpeacewithpink.blogspot.com)
D.トランプ大統領は今月1日、世界的に画期的と評価されている2015年「パリ気候変動協定」から離脱宣を行った。195ヶ国が加盟する「国連気候変動枠組条約」に基ずく「パリ協定」に合意しなかった国が二ヶ国あるが、合衆国は三ヶ国目になったわけだ。
二ヶ国とはシリアと中米の小国ニカラグアである。この二ヶ国の離脱は合衆国の事情とは全く異なっている。シリアは30万の犠牲者を出している内乱の最中にあり、気候変動どころではないことは理解できる。
 
 ニカラグアがパリ協定を拒否するのは、彼らが現在以上の化石燃料を燃やしたいのではなく、「パリ協定はまだ充分でない」という理由からである。

ニカラグアは既に半分以上のエネルギーを再生可能なエネルギー源から得ている。その上この比率を90%まで上げることを意図している。2013年の世界銀行報告はニカラグアを「再生可能エネルギーの楽園」として絶賛している。即ち同国は地熱、風力、太陽光、波による再生エネルギーを主要なエネルギー源としているのだ。

 
 パリ協定が協議された2015年、ニカラグアの代表は「協定には大気中の温室効果ガスの安定化のために行うべきことと、加盟国がそのために提案した公約との間に多くのミスマッチがある」と批判していた。
パリ協定のゴールは「グローバル産業時代以前より気温上昇を最大摂氏2度、または少なくとも摂氏1.5度に制限すること」だった。
 
しかし、2015年のニカラグア代表だった、ポール・オキストは各国が提出した公約のレベルに疑念を持った。即ち多くの国々は平均気温の2度削減に意欲を示さず、1.5度で満足を表明していたからだ。オキトスはこのような強制力のない「自発的な公約は機能せず、更なる努力が必要であり、今、将に世界は2度上昇どころか、3度上昇になりかねない状態にある。これは破滅的であり、絶対容認出来るものではない」とパリでの協議後、ニューヨークのラジオ局デモクラシー・ナウとのインタービューで語っている。正論だろう。
 
米国で「地球温暖化は科学的根拠がない」という学者の説は聞いたことがあるが、筆者はその真偽を判断できる、専門的知識は持ち合わせていない。しかし、世界の200近い国々が「地球温暖化の原因は我々が排出する二酸化炭素である」との前提に立っている意味は大きい。
 パリの会議でオキストが不当であると主張したことは、気候変動に関して先進国も等しく責任を果たすべき」ということだった。
歴史的に合衆国、ヨーロッパ諸国、そして最近では中国等が世界の二酸化炭素排出量の50%を占めている。特に合衆国は毎年、520万キロトンを排出している。これに反し、ニカラグアのそれは約4569キロトンに過ぎない。
 
ではトランプ大統領の考えはどうなのか? 
気候変動はリベラル派の「でっち上げ」だと信じて疑わない、トランプ大統領は、世界第二の温室効果ガス排出国である自国の、パリ協定からの離脱をどのように正当化したのだろうか、検討してみよう。
トランプ大統領は61日、ホワイトハウスのローズガーデンで行った演説で、最も多くの時間を費やした案件は雇用とアメリカ経済問題だった。同氏は「パリ気候変動協定」からの離脱を正式に表明したものの、明確な離脱理由の説明はなく、「パリ協定は合衆国の産業活動を制限するため雇用が失われ、アメリカを疲弊させ、他国を利する取引だった」と表明したのみだった。
 
だが、大統領は間接的に現今の気候学にも言及して、「もしすべての国々がパリ協定の名の下に各国が自ら算定した、非強制的な温室効果ガス排出目標量を設定したならば、2100年には世界の平均気温を0.2度削減する結果になるだろう」と協定の成果を疑問視した。これに対して気候変動の専門家は、この数値は時代遅れ、かつ虚偽の数字である、と批判している。
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写真:(www.mining.com)
さて2020年に発効するパリ協定からの合衆国の離脱は、トランプ大統領の首席戦略官・S.K.バノンとスコット・プルート環境庁長官の勝利と米国の新聞は書いているが、そうではない。トランプ大統領は選挙運動中から、オバマ政権のクリーン・エネルギー政策を批判し、合衆国の石油、石炭、天然ガス等の生産を増やす考えを繰り返し表明するとともに、公約として「パリ協定」は批准しない、と明言していた。
そしてオバマ政権の二酸化炭素排出規制を推進して来た、環境庁の権限、役割を排除又は削減することも公約として来た。従って、「パリ協定」からの離脱は既定路線だったと言える。
この発表を受けて、米国の反トランプ派はもとより、長年地球温暖化問題に取り組んできた欧州諸国から早速厳しい批判の声が上がった。だが、「アメリカ・ファースト」に基づくこの決断は、トランプ大統領の忠実な支持層及び共和党内では支持されている。
 
今回の決断で国際社会における合衆国の指導力、影響力が低下しつつあることが明らかになった。「アメリカ・ファースト」のトランプ氏には世界のリーダーになる気概がないのも明らかだ。その空席を埋めるのは中国だろう。そんなことになれば、国際安全保障情勢、特に東アジア情勢が混乱、不安定化する恐れがある。自国の憲法さえ変えられない我が国は、この厳しい世界情勢の中で生き延びられるのだろうか? 
(終わり)

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