秩父、長瀞、寄居への小さな旅
京亭の鮎づくしを堪能
秩父、長瀞、寄居への小さな旅の宿は、3ヶ月前から予約する必要があった、寄居町の旅館・京亭だった。四部屋の小旅館だからでもあるが、京亭は大の食通だった池波正太郎の「よい匂いのする一夜」に国中の名旅館、名ホテルと肩を並べて紹介されている、「知る人ぞ知る名旅館」だからでもある。
だが、大学時代の仲間である佐藤喬君の姉上の女医・中村蘭子先生が寄居町で60年も医院を経営されていた関係で、鮎解禁二日目に、我々早大海外移住研OB会10人組は、旅館を借り切ることが出来たのである。
寄居に行って分かったのだが、老いてなお美しい「蘭子先生」は人口34,000の寄居町で知らない人はいないほど、「町民に慕われる名医」なのである。
6月初頭、学生時代の仲間たちと秩父、長瀞、寄居へ「小さな旅」をして来た。
自宅のある府中から秩父駅までの乗車時間はわずか1時間36分だったが、京王、南武、青梅、八高、西武池袋、秩父鉄道の6社線を乗り継ぐ旅だったから、ある意味「大旅行」でもあった。乗り換え時間を勘定にいれると、2時間26分もかかった。しかも青梅、八高、西武池袋線は単線の上、ドアの開閉が「手動扱い」になっているのが珍しく、いかにも「遠くへ来たな」と言う気分に浸れるおまけまで付いた。なお、秩父鉄道以外の線はすべて「PASMO」が使えた。
秩父駅前で9人の仲間たちと落合い、駅中レストランで名物だという「麦とろめし」とそばを食べた。絶品だったのは、酒の肴に注文した、鶏皮のから揚げ。初めて食べたが、実に美味かった。
食後、駅近くにある、創建2100年の秩父神社に参詣する。この神社は家康が寄進した、左甚五郎作と伝えられる「三猿」の長押彫刻があることで知られている。ところが、秩父の三猿は日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」に対して逆説をとり「良く見、良く聞いて、良く話そう」と教える絵馬であり、「お元気三猿」と通称されている。言い伝えによると、家康はこの矛盾する二つの教えを巧みに使い分けた、という。いかにも家康らしいエピソードではある。
ところで神社の由緒書きによると、秩父神社の祭神・秩父大神は、かつて武蔵国の神社総社であった、府中の大國魂神社に「四之宮」として祀られている。なるほど、5月5日の大國魂神社の例大祭である「暗闇まつり」の主役級である、八基のお御輿のうちの一つ「四之宮」は、秩父神社ゆかりの神輿だったのだ。かくして府中育ちの筆者にとって、秩父はにわかに身近な存在になったのだった。
続く旅程は長瀞ラインくだりだった。秩父から長瀞駅まで秩父鉄道で移動。金曜日だったが外国人を含む観光客が多かった。駅からバスで荒川上流へ移動後、20人乗りのはしけで1時間急流を下る。両岸の巨石、奇岩の景色を水しぶきを浴びつつ楽しむ。この後、また秩父鉄道に乗って、今夜の宿となる、「沈流荘・京亭」のある人口34,000の埼玉県寄居町に到着した。
「埼玉県の北西部にある寄居町は、秩父市の北東に位置している。
奥秩父の山脈(やまなみ)を水源とする荒川が、秩父市の長瀞をながれてきて、その川幅が大きくひろがるあたりに寄居町はある」。と池波正太郎は「よい匂いのする一夜」で簡潔に寄居を説明している。
寄居町の荒川河畔から鉢形城跡を正面から見渡す絶好の位置に亰亭はあった。荒川の川幅が大きく広がる、ということはここから関東平野に入ったことを示している。そして川向こうはもう群馬県になり、少し北には真田藩の沼田城、その先には名胡桃城があったのだ。
入口に京亭の看板がある宿に着くと、玄関に「佐々紅華」の表札がかかっていた。我々は普段着の中年の女性の出迎えを受けた。品のよいご婦人だったので、「女将の佐々ゆき江さんですか?」と訊くと、「そうです。お待ちしていました」と、にこやかに笑みを返してくれた。ちいさな宿なので、格式ばらないところが新鮮でよかった。
佐々京華の姪御さんが、紅華の養女となって、宿を引き継いだことは「よい匂いのする一夜」で学習済みだったのである。それが女将のゆき江さんなのである。
ところで……。
「月はおぼろに東山、霞む夜ごとの篝火に、
夢もいざよう紅ざくら。
忍ぶ思いを振袖に、
祇園恋しや、だらりの帯よ」。
これは昭和初期に藤本二三吉が歌って大ヒットした、ご存じ「祇園小唄」である。この名曲を作曲した、佐々紅華が奥さんの生れ故郷であった、寄居をいたく気に入って建てた終の棲家が、「旅館京亭」になったのである。もともと旅館にするために建てたものではないので、4部屋しかない。だが、紅華の好み通り造園した庭園は、釣り人の見える、眼下の荒川と川向こうの断崖上の森が借景となり、うっとりするような眺めを作っている。
一行は檜の香りが漂う風呂で汗を流した後、浴衣に着替えて見晴らしの良い二階の12人が座る椅子席のダイニング・ルームに陣取った。そして、ハウスワインならぬハウス清酒・「鮎の宿・京亭」で乾杯。
いよいよ待ちかねた、鮎うるか、鮎煮浸しで始まる、鮎づくしを堪能したのである。下記に献立を載せておこう。
お献立
先 付 鮎うるか、 鮎煮浸し
前 菜 新水雲、黒ばい貝、合鴨ロース、蚕豆(そらまめ)、鮎骨煎餅
強 肴 鮎一夜干し、昆布旨煮
お造り 鮎刺身、妻一色
冷し煮物 玉子豆腐
海老、順采、姫おくら、マイクロトマト、美味出汁
焼き物 天然鮎塩焼き、はじかみ、蓼酢
中 皿 白身魚すり身石焼
揚げ物 稚鮎天婦羅、川海老、蓼景
御 飯 鮎飯、なめこ椀、香の物
フルーツ 季節の果物
緑字が鮎料理である。
圧巻だったのが、鮎飯である。池波正太郎は、「よい匂いのする一夜」で京亭の鮎飯をこう書いている。
「最後に、鮎飯が出た。これは、ちかごろ、めずらしい。昔は、玉川の岸辺の料亭でよく食べたものだが、、私にとって、戦後はじめての鮎飯だった。
鮎を、まるごと、味をつけた飯の上へのせて蒸らし、食べるときは魚肉をほぐし、飯とまぜ合わせて食べる。
鮎の芳香が飯に移って、実に旨い」。
夕食の後、一階のサロンに移って、各人思い思いの「酒」のグラスを手に、深夜まで学生時代の思い出話にふけったのである。何しろ、他の宿泊客はいないので、気兼ねなしにくつろげる宿なのだ。
翌朝5時、京亭の離れで目覚める。全員、白河夜船だったので、そうっと起きてひと風呂浴び、散歩に出た。河岸の段丘上の道路を歩くこと10分、川に降りる道があった。木々の間を30~40mts.下って河原に着く。そこから大きい石がごろごろして歩き難い河原を100mts.歩いて川のほとりまで行ってみる。水は綺麗に澄んでいた。なるほど、鮎が生育する川だけのことはある。
7時、宿に帰ると、半分は散歩に出ていた。8時、全員集合して定番の旅館朝食ではない、心のこもった朝食をいただく。即ち、湯豆腐、とろろ汁、あじの干物とご飯とみそ汁だった。食後、荒川にかかる正喜橋(145.9mts)を渡って、川向うの鉢形城跡を見学に行った。
鉢形城は前方を荒川に、後方を深沢川に挟まれた断崖上に築かれていた。15世紀ごろ、この地は交通の要衝に当たり、上州や信州を望む戦略的に重要な地点だった。1476年、この地に本格的に築城した武将は、関東管領であった山内・上杉氏の家臣長尾景春だった。その後小田原の本家・北条氏康の三男の氏邦が鉢形城主になっている。
我々は広大な城跡を歩き廻ったが、土塁、堀、土橋等が再現されている。面白かったのは、荒川の河原に多い、丸い大きな石で石垣が築かれていたことだった。
鉢形城を後にした我々は、寄居駅前の土、日しか開けない名物そば屋・上総屋でてんぷらそばを食す。噂にたがわず旨いそばだった。寄居駅は現在も交通の要衝で、八高線、東武線、秩父鉄道が通っている。私は「蘭子先生」からのプレゼントの清酒「鮎の宿・京亭」をぶら下げて八高線に乗車、八王子へ向かった。
良い旅だった。(終わり)