アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2019年05月

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              修道院に来たオウム
 
     
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                                                     写真:www.ramonanibaltv.blogspot.com
メキシコを襲った大地震で、ところの売春宿が倒壊、飼われていたオウムは籠に入ったまま、道端に置いてきぼりにされていた。
 
 そこへたまたま通りかかった修道女は可哀そうに思って、オウムを修道院へ連れ帰った。
 
修道院では近辺の司教さま、司祭さまたちと修道女たちの会議が終わったところで、一同は庭で雑談していた。
 
珍しそうにオウムの籠の周りに集まってきた一同をぐるりと見渡して、オウムは大声で感想を述べた。
 
「ははん、女たちは新顔ばかりだが、男たちはみんなお馴染みさんだなぁ…。」
 
お後がよろしいようで……。




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     ニューメキシコ~アリゾナの旅(2

ゴースト・ランチをリゾートに変えた白人女性

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写真:(www.santafenewmexican.com)
執筆者:辻 良二
 
【蛇足的まえがき】

184647年に勃発したメキシコと、米国に併合されたばかりのテキサス州との国境問題に端を発した米墨戦争で、米国に首都メキシコ・シティーまで攻め込まれて完敗したメキシコは、1848年に調印されたグアダルペ・イダルゴ条約によって、アメリカにカリフォルニア、ネヴァーダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミングとコロラドを1825万ドルで割譲した。こうして、ニューメキシコとアリゾナは1848年に米国の準州となり、1912年、両州はそろって、第4748番目の州に昇格した。そして、1926年に開通した国道66号線(Root66)のおかげで、サンタフェはシカゴと直結することになり、ニューメキシコ、アリゾナ両州の発展にも好影響が及ぶことになった。

ところが、ニューメキシコが州に昇格した20世紀の前半、大酒飲みで喧嘩早いカウボーイたちがのさばっていた、この州の治安状態は極端に悪く、特にルート66沿道の村々の殺人発生率は全米で最悪だった。そのような最果ての地で荒くれ男どもを心服させていた、この東部出身の二人の女性は、まさに「掃き溜めに鶴」といった存在だったのである。(富田記)
 
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写真:(www.pinterest.com)
さてもう一度ゴースト・ランチに話を戻して、この牧場のもう一つの名物、恐竜博物館のお話である。アーサーパックによると、戦争が終わる頃突然カリフォルニア大学の学生から牧場に一本の電話がかかって来た、そしてキャニオンの恐竜発掘の話が持ち込まれ、なんの変哲も無いキャニオンに恐竜の化石がむき出しになっているという事実が告げられて、にわかに金鉱ならぬダイナソー鉱が現れて、次々と恐竜の化石が発掘され、そしてこのランチに恐竜博物館が出来たというわけである。尋ねると牧場の大きさと比較してちっぽけに見える博物館だが、よく整備されている。確かに想像の世界では恐竜とキャニオンのイメージは会う、恐竜好きには堪らない施設かも知れない。
 
次に、ゴースト・ランチミュージアムを訪ねた。中に入るとレディーズ・オブザ・キャニオンズ企画展が開催されていた。そこで受付兼キュレーターの白人女性に、ゴーストランチの謂れを先ず尋ねた。するとキュレーターは立て板に水のごとく早口で説明してくれた、そのため殆ど何を言ったか理解できなかったが、兎も角この農場はかつて複数の女性が関わっていた、その回顧展との事、アングロ・アメリカンの女性たちが南西部のフロンティアー(ネーティブ・アメリカンの地)で暮らしビジネスを展開した様子を回顧させる趣向で多数の写真や身の回りの品が陳列されていた。
 
ここまでのゴースト・ランチをアーサー・パック著「…We called itGHOST RANCH」のエピソードで紹介した。しかこの特異なキャニオンの景観とこの地の時の流れを東部の富豪や芸術家に最初に紹介した女性がいる。事実、富豪のアーサー・パックもその噂を聞いて、娘の結核治療の目的でこの地を訪ねる事になるのだが。その東部の富豪を惹きつける別天地でゲスト・ランチビジネスを成功させた勇敢な女性キャロル・スタンレー無しにはこの地は語れない。そのキャロル・スタンレーを主人公に、2015Lesley Poling-Kempesが著した「Ladies of the Canyons」より。
 
 
ボストンのスタンレー家の令嬢(1879年生)で、キャロルと言うビクトリア朝アメリカで優雅に暮らす事が約束されていた女性がいた。しかしボストン音大を卒業、音楽を教える仕事に情熱を燃やしている内に、婚期も逃し、一時期シカゴに行って音楽教育活動の傍ら、シカゴの進歩的理想主義グループに加わりその影響をうけた。しかし、そうこうしている内に、ボストン交響楽団のバイオリニストと恋に落ち、それを知った両親が不釣合いの恋と決めて、その熱を冷めさせようと、彼女を遠いニューメキシコに送り出したのである。
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写真:(www.thebasinandrange.com)
ところが何と典型的なアングロアメリカンのビクトリア朝婦人がネーティブアメリカンに染まって二度とボストンには戻らなかったばかりか、馬の背に乗ってサウスウエストのインデイアン居住地を旅した最初の白人女性として歴史に名を残す事になるのである。

彼女は旅先で多くのカーボーイやインディアンの友人を作る。そして1916に旅先案内人のカーウボーイと結婚、サンタフェ近くのSan Gabriel 農場で暮らし始め、やがて農場を改修して1920年にはゲストランチビジネスを始める。ビジネスは成功して、その顧客にはRockefellers,Archibald MacLeish それにWilla Cather 等、大富豪、人気作家が名を連ねた。しかし29年の大恐慌で一挙に客足が遠のき嘗ての盛況振りは消えて、やがて厳しい経営を強いられることになる。またキャロルの夫が大酒飲みだったこともあり、やがて離婚し、農場も手放すことになる。その大酒飲みの前夫がポーカーゲームで勝って入手し、キャロル名義になっている農場に1931年移る。その農場にゴーストランチと名付け、この景観の美しいランチにアドベコテージ(Cacitas)を作り、東部の富豪や芸術家にサウスウエストの平和な時の流れを提供してランチのリゾートビジネスを再度成功に導くことになる。

 
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写真:(www.themetropolitanmuseumofarts.com)

1934年そこに現れ住み着くのがかのジョージア・オキーフなのである。しかしここもやがてランチビジネスの活況も薄れる、そこに富豪アーサーパックが現れ、1935年やがてこの地はパックに売り渡し、彼女はコロラドに移住して再婚、旅館を経営する。そして67歳で亡くなるのである。その彼女の葬義にはフォーコーナーズの全てのカーウボーイが雪深い山路を登って参列したと言われている。その様子をDorthy Burnham Fredericks が回想して、 "all the cowboys showed up for her funeral. Allof them.と記している。

 
そして、今回ミュージアムで、運良く彼女の展覧会が開催されていたというわけである。どうやらミュージアムのキュレーターは上記を手短に纏めて立板に水の説明してくれたという訳である。

Ladies of the Canyons」で、Lesley Poling-Kempesは、キャロル・スタンレーについて、かつて映画にもなった「アフリカの日々」を描いた作家イサク・ディーネセンの名言を引用している。曰くWomen, when they are oldenogh to have done with the business of being women,and can let loose theirstrength, must be the most powerfull creatures in the world.即ち「女性達は、女性の役目をうまく処理できる年齢になり、自分たちの強さを解き放つことができるとき、世界で最も強力な生き物であるにちがいない。」

このオランダ人作家ディーネセンもキャロルと同年代で、彼女は軍人の娘でオランダ王室の男爵と結婚しアフリカのケニヤに移住、コヒー栽培を手掛ける。後に離婚しても自分一人でコヒー農園の経営をするのである。しかしコヒー相場の暴落を機にアフリカを引き上げて作家になった。その彼女の半生を描いた「アフリカの日々」、これは映画にもなり、欧米は勿論日本でも放映された映画の主人公が作家本人なのである。その「アフリカ農場」は以下の名文で始まるのだが、今回の旅が50年前に二年間生活した標高1800メートルの東アフリカの大地とピタリと重なり、ゴーストランチの景観と空気がまさにこの名文を思い出させてくた。
世界でも類のない世界が出現した。
そこには余分な物、華やかな物は見あたらない。

それこそ二千メートル昇うちに、蒸留されたアフリカで、大陸を精製した強烈なエキスとでも言うべきものだった。

陶器の色を思わせる、焼け乾いた色彩が占めていた。

ー カーレン・ブリクセンー  「アフリア農場」より。

 
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写真:(www.architectualdigest.com)
この文章中の「アフリカ」をアメリカの南西部フォーコーナーズ地域に置き換えると、Ghost Ranchの日々の朝から夜までの景色の変化や情景の変化が想像できる。
 
さて此処でもう一度今回の旅の地理を整理してみる。今回の旅は米国南西部のフォーコーナーズ4州のユタ州を除く3州を訪ねた。下記は今回旅した地名を訪問順に並べたものである。そこで質問、地名の横の数字が何かお判りですか?
ニューメキシコ州
アルバカーキ空港ー1602
サンタフェ・プラザー2135
ゴースト・ランチー1968
チャコキャニオン・プエブロボニートー1872
ギャラップ・エルランチョホテルー1996
アリゾナ州
フラッグスタッフー2107

グランドキャニオンデザートビュービジターズセンター  2275

グランドキャニオンデザートビュー眼下のコロラド川ー800
フェニックスー387
ツーソンー746
コロラド州
デンバー空港ー1645
 

実はこれ、各地の標高なのである。これまでニューメキシコとかアリゾナ州と言うと、いずれも標高の低い半砂漠地帯で年中暑く、平原に生えているのはサボテン位と思い込んでいた。ところが実際は上記の通り、殆どは標高1500メートル以上の高地で、冬場は寒く朝方の最低気温はいずれも零下になる、マイナス10度近い場所もある事を知り、大変な驚きと共に改めて地域の地理や気候を学び直した。

また米国のコンティネンタル・ディバイド(太平洋と大西洋に注ぐ川の源流となると分水嶺)は両岸5000キロのコーストtoコーストの西海岸寄りのロッキー山脈にあり、訪れたサンタフェはメキシコ湾に注ぐリオグランデ川の上流にあり、分水嶺の東側に位置していた。しかし今回の訪問の目的のもう一つの地で有るチャコキャニオンはサンタフェから直線距離では200km程に位置していて、チャコキャニオンの方がサンタフェより400メートル程低く、更にその西には2000メートルを超えるグランド・キャニオンが控えている、にも関わらずチャコの水は、グランド・キャニオンをえぐり取りながら、コロラド川に合流してカリフォルニア湾に注ぐ西側分水嶺の太平洋側となっている。
 
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ピンクの地の上の2本のカラー・リリー (ジョージア・オキーフ画)
写真:(www.santafenewmexican.com)
かくして、私の、東部ウイスコンシン州生まれのジョージア・オキーフが、なぜニューメキシコ州のサタフェ(ゴースト・ランチ)なのかの疑問は解けるどころか、此処しか無かったと確信が得られた。また上野で出会った一枚の絵に導かれた今回のサンタフェの旅、またいつか、どこかで「ジョージア・オキーフ/ピンクの地の上の2本のカラー・リリー」に出会える事を願う。(続く)



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           恥ずかしくて、もう二度と…
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写真:(www.pinterest.com

熟年の女性が掛り付けのドクターに、夫との性生活について相談しに来た。
ドクター:「ヴァイアグラを使ったらどうです。」
女性:「飲む可能性は低いと思いますよ。アスピリンさえ飲まない人ですから。」
ドクター:「大丈夫。彼のコーヒー・カップに入れるんですよ。気がつきゃしませんよ。
まあ、試して御覧なさい。一週間後、どんな具合か電話して下さい。」

一週間後、女性はドクターに電話した。

ドクターは単刀直入に夫の問題の進展具合を訊いた。

哀れ女性は悲鳴に近い叫び声をたてて、話し始めた。
女性:「ドクター、恐ろしいことでした。身の毛のよだつような悪夢でした。」
ドクター:「一体全体どうしたのですか?」

一息ついて、女性:「先生のご指示通り、彼のコーヒーに薬をいれました。そうでしたよね?
効果は一瞬の間に現れました。夫は目をギラギラ輝かせて、私に飛びかかってきました。彼は手荒くズボンとブリーフを脱ぎ捨てるや否や、テーブルの上にあったコーヒー・カップ、砂糖入れ、スプーンやらを宙に飛ばしました。
そして、私のブラウス、下着類を剥ぎ取り私をすっぽんぽんにして、その場で直ぐさまワイルドで、気狂いじみた情熱的な愛の営みを私にしたのです。テーブルの上ですよ。恐ろしい悪夢でした。恥ずかしかった。」と語った。

ドクター:「何が恐ろしかったのですか。あなたはEnjoyしなかったとでも言うのですか?」
女性:「勿論、満足しました。ドクター、本当の話、あんな素敵なセックスは25年の結婚生活で初めてでした。
でも、恥ずかしくて、もう二度とスターバックスには行けませんわ。」

 
お後がよろしいようで……。




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        ニューメキシコ~アリゾナの旅(1
 
   全米で二番目に古いサンタフェの巻
 
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               執筆者:辻 良二

【まえがき】数年前、テレビ朝日の「やじうまテレビ」で杉並区の住宅街で植木鉢のマンゴーが見事に熟した、と放映されて評判になったことがあった。また、寒い東京で熱帯植物である、ブラジルの国花イペーを開花させた、と言ってブラジル人を驚かせた、人物がいた。この二つの快挙を成し遂げたのが、今回お送りする、「ニューメキシコからアリゾナへの旅」の筆者、辻良二さんだった。
 辻さんはパパイア、マンゴー,マンゴスチン等のトロピカル果物の生産をハワイ、フィリッピン、タイ、オーストラリアの自営農場で行って、その産物を日本に輸入するとともにスペイン産の生ハムも輸入する商社の常務として、世界中を飛びまわる、バリバリのビジネスマンである。この辻さんは仕事を離れると、絵画にも一家言を持っている趣味人で、Facebookで海外の画家の作品を紹介することでも知られている。
 そんな彼が愛してやまない、前世紀の女流画家・ジョージア・オキーフ(18871986)がなぜ、米国の僻地である、ニューメキシコ州のサンタフェを活動場所に選んだのかを探るべく、今回のニューメキシコへの旅を思い立ったのである。
 旅行記で辻はジョージアが住み着いた、ゴースト・ランチの由来から世界遺産のチャコ文化国立歴史公園、グランド・キャニオンの知られざる、エピソードを見事に活写している。
さて、辻さんの旅行記は数回にわたって、連載して参ります。どうぞ、最後までお付き合いいただければ幸いです。(富田記)
 
201811月末に米国南西部のニューメキシコ〜 アリゾナ州の1300kmをレンタカーでドライブ旅行して来た。この地域は私が想像していた米国のイメージとは程遠く、インディアンとメキシコの文化が深く根ざしていて、大変印象深い旅だった。
 
 
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旅は羽田からアルバカーキ迄は飛行機で飛び、そこからレンタカーで移動したのだが、先ず最初は、同年代なら一度は体験したいと思う「Root66」をドライブ、道路に因んで、古き良き時代の雰囲気を残して営業している「66Diner」で遅いランチを済ませた。その後、アルバカーキー・ダウンタウンの歴史建造物を見学、暮れなずむアルバカーキを後に州都サンタフェへ。
サンタフェは全米で2番目に古い街で、市内の殆どの建物は土色のアドベレンガ製。また、サンタフェは標高約2100メートルと全米で一番高い州都としても知られたところ。お陰で前週降った雪が建物の裏側に残り外出はダウンジャケットが必須、ホテル内もロビーには大型暖炉が備えられ、燃え盛る薪の炎で暖をとるという、全く想定外の古都(1610年ヨーロッパ人が創設した米国で2番目に古い町)
 
 
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宿泊したホテルは大聖堂に面したラ・フォンダ・オンザプラザと言う、街最古のホテル、本物の薪暖炉のあるホテルロビー、暖炉前のカウチに座って寛ぐ、内心期待の光景である。宿泊客は皆物静かで礼儀正しい老父婦が殆どで非常に寛げた。夜8時過ぎに買い物から帰ると、ホテルのロビーではスタンドバーの前で寛ぐ客、また館内のBGMに合わせてホテルロビーで何組かの老父婦がダンスを踊っている、何とも優雅な時が流れていた。またスペイン風にホテルの白壁には所狭しと絵画が架けられている。このホテルの雰囲気は、かつて経験した東アフリカの標高1800メートルの高地のイリンガ・インや標高1300メートルにあるハワイ・ボルケノハウスロビーの暖炉前で寛いだ光景を40年振りに思い出させてくれた。
 
 
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サンタフェ旅行の目的の一つは、200711月に上野の東京都美術館で「ジョージア・オキーフ/ピンクの地の上の2本のカラー・リリー」に出会って以来、ジョージア・オキーフ美術館を一度訪ねて、なぜサンタフェなのかを問うと言う、自身の夢を叶える旅だった。確かに街は絵画の取引額がロンドン、ニューヨークに次ぐ世界で3番目という通り、中心街の建物は教会も含めて殆どが美術館や歴史的建造物で、通りには画廊が軒を並べている。更に州議会議事堂はインディアン文化に根ざした「キヴァ」を模して設計され、議事堂内の通路は幅広く作られていて、その壁には絵画が飾られて州立美術館も兼ねている、と言うより美術館の中に州会議事堂が有るという街。
 
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そんな中でオキーフ美術館は知名度も高いのか、学生から老人まで結構な人混みであった。それでも日本と違い自由に鑑賞出来て写真撮影も可、展示作品の内のピンクに染まったキャニオンのヒル()作品は印象深かった。それに彼女の好みのモチーフの花を描いた深いブルーと紫が素晴らしかった。その他は彼女の全体像を描き出す目的の展示のようだった。またオキーフ作品は、お隣のMuseum of contemporary native art にも数点収蔵展示されていて、此方は州立美術館の収蔵品と見えて力強く目を引く大作だった。そんなこんなのサタフェ、日本的に言う歴史景観地区の、先ずイタリアのアッシジに忠実に倣ったというThe Cathedral Basilica of St. Francis of Assisi大聖堂、奇跡好きのキリスト教信者に人気の柱の無い螺旋階段のLoretta Chapel1600年代のはじめ建築当時の壁が残るSan Miguel 教会、その隣の米国で一番古い家屋として保存され当時のアドベレンガが見られる家屋The Oldest House of USAなどなど、サンタフェを脳裏に刻んだ。
 
ところで、ニューメキシコのサンタフェと言えば原爆開発で有名なロス・アラモス研究所が近くにある事でも知られている。しかし今回はホテルコンシェルジェのお勧めに従い、その先の、オキーフの別荘も有り、彼女の多くの作品のモチーフにもなった、絶景を誇るキャニオンに囲まれた「ゴースト・ランチ」をホテルから往復2時間のドライブで訪ねた。
 
 
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まず、この牧場名「ゴースト・ランチ」の由来が興味深い。牧場は半砂漠の2万エーカーと広大なのだが、大きな絶壁のキャニオン(Box Canyon)に囲まれ、そこには年中枯れることのない小川が流れているのである。その牧場に、西部劇時代に牛泥棒の2人兄弟が住み着いた。何故なら小川は牛泥棒が牛の足跡を消すのに必須条件だったのである。更に絶壁のキャニオンに囲まれて盗んだ牛を匿うのに最適だったと言うわけだ、所がその兄が弟に黙って牛を売り飛ばしお金を独り占めにしてしまった。それを知った弟が兄を殺して兄の家族を人質にして金貨の隠し場所を見つけ出すというストーリーなのである。しかし、やがて其れを知った地域の住人がその弟と手下の牧童を捕まえて、吊るし首にした。その吊るし首に使ったコットンツリー(ウエスタン・ムービーを自で行く筋書き)が今も残っていて観光名所になっているのである。その後この地は人手を渡って教会に寄贈され、現在は教会と研修施設として管理されているという訳である。その宿泊施設の古くからある部屋に泊まると夜中に男と女の叫び声が聞こえると言う。どうやら其れがゴースト・ランチの由来のようである。
 
 
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所でこのキャニオンを第二次世界大戦前後に所有していた大富豪の作家でNature Magazine の編集人であったアーサー・パックが「…We calleditGHOST RANCH」に著している。真珠湾攻撃が有って間もなく地域の若者が皆召集されて、牧場は女性と年寄りになり、その維持に苦労したと記されている。更にこの牧場は大戦後に判明するのだが、ある日秘密諜報員が訪ねてきてFBIカードを見せ、牧場を徹底的に調べた、その上で、戦争が終わるまでロスアラモスの超国家機密Manhattan Project(終戦後に原爆開発だった事を知った)のチーフリーダーだった、ロバート・オッペンハイマー博士の土日の保養地に使われたとのこと。理由はロス・アラモスもこの地も半砂漠の自然の美しさに博士が惚れて選定されたようだ。また原爆開発研究所はロス・アラモスに有った、陸の孤島のような男子高校を転用して作られたそうだが、当時ウランの生産量はニューメキシコが全米一であった為にこの地が選ばれたと言う説、はたまた半砂漠地帯で、逃亡や侵入のセキュリティーが容易である等、興味は尽きないが、宿泊したラ・フォンダホテルで知ったエピソードを1つ。
 
 
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実はサタフェで昨年(2018)から今年(2019)にかけてロングランで「マンハッタン計画原爆史展」が博物館とオペラ劇場で開催されラ・フォンダホテルも協賛している。何故なら、この計画のリーダーのオッペンハイマー夫妻とその仲間が当時ロス・アラモスが整備されるまで投宿したのがこのラ・フォンダホテルだった。更に彼らはロス・アラモス研究所の職員雇用で厳重なセキュリティーチェックを行う為の事務所を、ホテル近くの109 East Palaceに設置したのである。その隣近所の関係で多くの訪れる研究者の待機場所がラ・フォンダホテルになった。また研究所から、娯楽を求めてやって来るアメリカの科学者たちもラ・フォンダを選んだのも当然といえた。ところが、それを狙ってソ連スパイやそれを追うFBI捜査官がサンタフェに群がり、スパイ合戦が行われたのは知る人ぞ知るところ、そしてそれを欺いて情報を守るためにアメリカ政府は、職員を隠れたエージェントとして、ホテルスタッフ、バーテンダー、カクテルウェイトレス、フロント係など様々なホテルスタッフに仕立てて潜入させて対抗したという、特別事情の裏話があり、ラ・フォンダ・ホテルとロス・アラモス研究所との縁が続いていると言う訳である。
 
逃亡とかセキュリティーとなるともう一つ話がある。其れは第二次世界大戦開戦と同時に行われた日系人の収容である。サンタフェの収容施設は刑務所を転用した強制収容施設だったが、真珠湾攻撃後間も無く、開戦前から既に疑惑が深いとされてFBIリストに載った日系人が最初に、収容されたのがサタフェだった、後にラテンアメリカ諸国の日系人の収容もこの施設であったとの記録がある。しかし先述のニューメキシコで召集された若者の多くは太平洋戦線に送られていて、フィリピン戦線で起きた日本軍による「バターン死の行進」では、この地域出身者が多く亡くなった。その時期と重なった為に地元の血気盛んな人々がキャンプに戦いを挑もうとしたとか、また収容中に2人の日系人が殺害された事。更に戦争末期には収容所内で特異な反動分子を別の収容所へ移す為の実行日に暴動が起き、催榴弾が収容者に発せられて複数の重傷者が発生した。そんな収容所跡に記念碑が建ったのはなんと2002年なのである。何処も同じだが、戦争後に敵味方が折り合いをつけるのには時間が必要のようだ。
その顕著な例がもう一つある、州議会議事堂の隣のニューメキシコ州政府事務所で、ビルに「Bataan Memorial Building 」と名前が付いている、その理由が以下である、即ちバターン死の行進捕虜の中に多くのニューメキシコ州の若者がいて亡くなっている。そして捕虜になった彼らは日本の本土に連れていかれて、秋田の鉱山で粗食配給の下、重労働を強いられ多くの捕虜が命を落としている。記録によるとニューメキシコ州出身者だけで1800人が召集され、半分が亡くなったとのこと、これは忘れてはならないと言う事で、サンタフェ州政府事務所のビルにこの名前が付されているわけである。戦争犠牲者の想いが深い事を改めて知らされた。(続く)
(注)掲載した写真はすべて辻良二さんの撮影されたものです。
 



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      「あたし赤ちゃん産める?」
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写真:(www.freepik.com
幼稚園児のロシリータが先生に「あたしのママは赤ちゃん、産める?」と訊いた。
すると先生は「あなたのママはお幾つ?」と訊いた。
40よ」とロシリータ。
「それなら産めるわよ」と先生。
 
「あたしのお姉ちゃんは赤ちゃん産める?」と再びロシリータが訊いた。
「お姉ちゃんはお幾つ?」と先生。
18よ」とロシリータ。
「産めるわよ」と先生。
 
「それなら、あたしも赤ちゃん産める?」とおそるおそるロシリータは訊いた。
「産めないわ。あなたは5才ですもの、赤ちゃんは出来ないわ」と笑いながら先生は答えた。
 
すると、教室の後ろの方からペピートのデカイ声が聞こえた。
「それ見ろ!オレが言っただろ、心配するなって」。
 
お後がよろしいようで……。



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