アメリカよもやま話・学校編
「祖父母の日に招かれて」
2月中旬アメリカから帰国した。到着前の機内放送でも空港でもコロナウイルスに関する注意等はまったく聞くことも見ることもなかったのは、実に意外だった。到着した日曜日の羽田は小雨だったが意外と寒くなかった。暖かい南テキサスから帰って、東京は寒いでしょう、とよく言われるが、ぼくが暮らすサン・アントニオ市(以下SA)の気温は明け方には氷点下になることもあるが、10時には20℃前後に上昇する。今年のSAは例年に比べて少々寒いが、日中は暖かくなるので、マイアミほどではないが、冬のSAは気温が観光の目玉となる。「毎日ゴルフができます」と言う風にPRするのである。
そんな南テキサスでもまだ寒い1月31日(金)、末っ子の孫Kenzoが通う、聖マタイ小学校で毎年開催される、「祖父母の日-Grandparents Day」に招待された。この学校はカソリック系の幼稚園から中学までの一貫校で、4人の孫のうち大きい3人もここを卒業している。二面のバスケット・ボール兼バレーボールのコートと両端に観客席がある、新築の体育館が会場に当てられた。
朝食を食べて、会場に8時半に着くと、会場の2/3に並べられた椅子席はすでにおじいちゃん、おばあちゃんと親御さんたちで満席だったので、息子夫婦とぼくは立ち見席で子供たちの歌と踊りを楽しんだ。多分、1000人は入っていただろう。今年はスターバックスのコーヒーと菓子パンの無料サービスまであった。女性の校長先生の歓迎の辞の後、例年なら「今日の祖父母のお祝いのために、わざわざ遠いところからいらした、グランパ、グランマはいらっしゃいますか?」と問いかけるのだが、今年はなかった。
昨年ぼくは手を挙げて、「Tokyo, Japanから来ました」と叫んだ。大部分の祖父母たちは、遠くてもカナダ、メキシコくらいだったが、「Kabul、Afghanistan」と名乗ったおじいちゃんがいた。ぼくは「負けたな」と思ったが、先生たちは「Tokyoのおじいちゃんが勝ちました」と言って、学校のロゴ入りの真っ赤なひざ掛けの賞品を校長先生がわざわざぼくの席まで届けにきてくれた。その代わり、今年は幼稚園から中学3年生までの10学年のパフォーマンスの合間に抽選で景品が当たる、くじ引き会が開催されて大賑わいだった。驚いたことは、中には最高5人のお孫さんがこの学校に通学している、祖父母がいたことだ。だから、3,4人の孫たちの歌と踊りを鑑賞するのに、3時間ほどかかる。従って席が空くことはまれで、我々はず~っと立ちっぱなしだった。
ぼくはアメリカ人の家族の絆は日本人より弱い、と思っていた。何しろ、アメリカの夫婦の50%以上は二度目以上の結婚による夫婦だからである。ところが、夫婦関係は壊れても、子供、孫との絆は続くのである。昔、孫のRickの高校サッカー応援で毎週、各地に試合を見に行ったとき、両親が離婚した、孫のチーム・メイトの応援に元夫婦は別々に応援しに来ていた。お母さんはお母さん仲間で大いに盛り上がっていたが、お父さんは一人さみしく座っていたのを覚えている。こんな時、女性は強いですね。
女性が強いといえば、孫の学校である聖マタイ小学校の校長先生と副校長先生は共に女性である。大体、アメリカの小中学校の先生は女性が多い。このお二人は共に教育学の修士の資格を持っている。校長になるには、少なくとも修士の資格は必要で、小、中学校の先生で博士号を持っている人も珍しくない。
日本では、モンスター・ペアレントと言う、何かにつけて先生に文句をつける親たちがいるそうだが、こういうモンスターと理論闘争するには、修士級の教養が必要というものだ。ところで、このモンスター・ペアレントは和製英語でアメリカでは通用しないが、上手い表現であることは確かだ。
いじめは卑怯な振る舞い
写真:(www.elpasodiocesefoundation.org)
モンスター・ペアレントには驚いたが、日本は子供たちの中にもモンスターが多いようだ。同級生をいじめる子供たちである。アメリカにもいじめはある。だが、アメリカの学校のいじめへの対応は、日本と大きく違っている。
数年前日本でいじめによって、小学生が自殺するという痛ましい事件が起こったとき、筆者はKenzoの学校の先輩でもある、彼の三人の兄姉たちと話し合ったことがあった。
孫たちに君たちの周りでいじめにあった仲間がいたかどうか、を聞いたのである。すると、男の子たちは「聞いたことがない」と言ったが、孫娘は「他校の女子生徒が自殺未遂事件」を起こしたのを聞いていた。
孫娘が語ってくれた事件の概要はこうである。
或る女子中学生に数人のクラス仲間が、「あなたのお父さん、お母さんはあなたを愛していない」と冗談半分に何度も繰り返し言った。やがて、女の子は「中傷を信じて、自殺を図った。」幸い発見が早く、少女の生命に別状はなかったのは、不幸中の幸いだった。
そこで、君たちはこの事件についてどう思うか?と聞いてみた。
すると、三人はそろって「弱い子をいじめるのは、卑怯な振る舞いだ」と返答した。
三人が通うカトリック系私立校では、あらゆる機会に、「いじめ問題」が取り上げられ、「弱いものをいじめるのは卑怯なふるまいである」という教えが繰り返し、伝えられる。
「君たちが遊び半分で言う、心無いことばがどれだけ学友を苦しめるか」を君たちは知る必要がある、と生徒たちは教室で指導される。
とにかく、いじめの具体的な例とその痛ましい結果を紙芝居、ヴィデオ、映画、歌等で紹介して、「学友を不幸な思いにさせるのは、卑怯な行いです」と言うメッセージが繰り返し、繰り返し発信される。孫たちの学校では幸いにも「いじめ」の例はないにも係わらず。
アメリカの先生は、「見て見ない振りをする多数の傍観者」をふくめて、いじめの加害者の方が被害者より多数である、との認識を持っている。従って、いじめを予防することに重点を置いて、いじめ加害者予備軍を無くそうと言う確固たる方針で、子供たちを教育している。そして、加害者たちは無智な迷える羊であり、親、教育者の無智、無責任の犠牲者であると考える。学校側は被害者への対応はもちろんだが、「いじめ加害者予備軍」への真剣な対応が最重要である、との認識を持っている。
恐らく日本の先生たちには、「大勢で一人の弱い子をいじめるのは、卑怯な振る舞いでフェアでない」という発想がない、と思う。
あるとき筆者は聖マタイ小学校の先生が生徒にいじめの話をして、「イエスキリスト様はこんな時、どうなさると君たちは思う?」と問いかけたことを聞いたことがある。これは効果てきめんだった。これ以上、子供たちを「不幸な目に合わせないために」、発想の転換と日常的に「いじめは卑怯な振る舞いであること」を繰り返し発信することを日本の先生たちにお願いしたいものである。(終わり)