「愛するお義母さんに関する小話・三編」
写真:(www.verywellfamily.com)
【蛇足的まえがき】
ギリシャ語には愛という言葉の表現が4つあったということを、曽野綾子さんの「現代に生きる聖書」で学んだ。一つは「ストルゲー」で家族愛、次が「エロス」という言葉で男女間の性的な愛である。ただし、この二つは聖書には出てこない。
聖書に現れるのは、次の「フィリア」からで、お互いが好意を感じるという意味の「愛」即ち、「好きであること」である。友達や先輩に対しる感謝や尊敬や、何となく感じがいいといった気持ちを表す。
四つ目の愛は「アガぺー」であり、これが「敵を愛しなさい」の愛、いわゆるキリスト教的な愛である。曽野さんは「アガぺー」の卑近な例として、姑と嫁、婿との関係を挙げている。あの人の顔も見たくないし、あの人の使ったタオルに触るのもいやだと言って二本指でつまんだりする。だが曽野さんは、そのままでいいと言っている。愛するということは、その姑が嫌いなままでいいのだ、と教えてくれる。しかし、もし姑が自分の母だとしたら、どうするかということを「理性」で行動すればいいのです。姑が病気になったら、薬を与える、寒かったら、温かい衣服を買ってあげる。そうすると、ごく自然に二人の間に、意志的な愛を超えた自然な好意の還流が成り立ってくる、という。これを曽野綾子さんは「理性の愛」と呼んでいる。
さて、難しいことを書いて恐縮するが、この「理性の愛」が織りなす様々なドラマがメキシコ小話の人気テーマなのである。スペイン語で姑のことを「スエグラーsuegra」という。舅はsuegroである。日常的に婿、嫁は彼女に「愛するスエグラー愛するお義母さん」と呼びかける。顔を見るのも嫌だが、一応「愛する」という言葉を使うということは、まさしく「理性の愛」そのものである。中には「愛するお義母さん」とまでは言わずにセニョーラ(ご婦人、奥さんの意)と呼ぶ人もいるが、別に礼を失したとは思われない。
下記の三編の小話では、suegraを日本語風に「お義母(かあ)さん」と訳した。断わっておきたいのは、メキシコ、否スペイン語圏の国々では、姑または義母を「お母さん」とは絶対に呼ばない。「お母さん」は自分を生んでくれた母にだけ使うべき言葉だからである。
以上を頭の片隅においてから、下記の一笑一若・メキシコ小話をENJOYしてください。
たかが小話、されど小話である。(テキサス無宿記)
第一話:国勢調査
家に国勢調査員が訪ねてきた。
「あなたのお名前は?」と訊いた。
男性は「アダムです」と答えた。
奥さんの名前はと訊かれた男は、「エヴァです」と答えた。
「信じられない、何という偶然の一致でしょう」と言った後、調査員は冗談っぽく
「ヘビも一緒に住んでますか?」と訊いた。
「はい、いますよ、ちょっと待ってください」と言ってから、
男は大声で叫んだ。「お義母さん、国勢調査の係員が来ていますよ」。
お後がよろしいようで……。
第二話:直ぐうちにいらしてください
嫁がお義母さんに電話している。
「お義母さま、息子がうんちをしたとき、誰がきれいにするのでしょう。パパ、それともママ?」と訊いた。
「決まっているでしょう。ママですよ、あなた」と義母は答えた。
「そうですよね。お義母さま、直ぐうちにいらして下さい。あなたの息子さんが酔っぱらって、うんちでズボンを汚しちゃって、臭くて臭くて…」と言った。
お後がよろしいようで……。
第三話:お義母さんの死
ある家の前に大勢の人々が集まっていた。
そこへたまたま通りかかった、近所の人が家の主人に質問した。
「何があったのですか?誰かお亡くなりになったのですか?」
「そうです。私の愛馬がお義母さんを蹴り殺したのです」と主人は答えた。
知人は「それはご愁傷様です。これらの人たちは貴方のお義母さんのお知り合いですか?」
と訊いた。
「いいえ、みんな私の愛馬を借りたい、と言って集まってきたのです」と答えた。
お後がよろしいようで……。
下記のURLは「お義母さんの死」のアメリカ版「奇妙な葬列」です。メキシコとアメリカの義母の小話を読み比べてごらんなさったらいかが?
http://iron3919.livedoor.blog/archives/3383316.html