アメリカ便り

アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

2021年07月

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アメリカ小話

                 暑気払い小話大会第一弾 
          
               見上げてごらん……
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                          写真:(www.sieteplanetasdesorbitados.com)
【蛇足的まえがき】
 軍楽隊員が身に着けているスカート状がキルトである。キルトはスコットランド高地の男性の伝説的衣装であるが女性も使用する。これは長いタータン柄のウール地を独特の方法で腰に巻きつけ、紐、ベルト或いはピン等で留めるもので、スカートではない。キング初め王族の方々も着用する正装であり、スコットランドの軍人たちは軍服として着用する。
キルトを着用する際、下着をつけないのが決まりである。従って椅子に座る際、股を広げすぎると、大事なところが見えてしまう。その結果、数限りない小話が語り続けられ、国際的にも有名である。
スコットランド地方以外の住人は、キルトを見る機会がないので、キルトを着用した男女が登場すると、人々は老若男女を問わず、好奇心丸出しになる。今回はロンドンの子供たちが主役になった。 なお、この小話は2018年1月30日に掲載されたものです。
(テキサス無宿記)

    一笑一若・アメリカ小話「見上げてごらん…」
ロンドンのハイドパークにスコットランドのバグパイプ軍楽隊が演奏に来ていた。

芝生で転げまわって遊んでいた、幼いジョンとボブ兄弟は、休憩中の軍楽隊員に話しかけた。

「兵隊さん、キルトの下にパンツ履いていない、って本当」とジョン。

「寒くないの?」とボブが訊いた。

すると、兵士は「何なら、見上げてごらん」と二人に言った。

お後がよろしいようで……。

アメリカ便り青

   大谷アメリカ娯楽界が必要とするスター
                (By Kurt Streeter)
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              写真:(www.insidehook.com)
【蛇足的まえがき】
大谷翔平選手が米球界で大活躍している。そこで、今回のアメリカ便りは米国人の見るショウヘイ・オオタニをご紹介したい。 下記の記事はカート・ストリーターによる、ニューヨーク・タイムズ電子版のコラム・Sports of Timesに7月12日に掲載された、「大谷はアメリカ娯楽界が必要とするスター」の翻訳である。カート・ストリーターは若いころプロ・テニス選手だったが、後年ジャーナリストに転向し、ESPNの編集委員等を務めた後、ニューヨーク・タイムズに入社した。
彼はスポーツと「より広い社会」特に人種、ジェンダー及び社会正義との関連に関心を抱いている。従って、ストリーターは、オオタニとアメリカ社会の関連性を論じるには、うってつけの人物と言える。原題は[Shohei Ohtani Is Just the Star America`s Pastime Needs]
(テキサス無宿記)

     大谷アメリカ娯楽界が必要とするスター
            「ベーブ・ルースってこうだったんだ!」
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             写真:(www.japan-forward.com/)
 先週、米国のスポーツ界の最高のスペクタクルの一つである、大リーグのオール・スターゲームにオオタニはアメリカン・リーグの投手として、そして打者として出場した。メジャーリーグは前例を破って、オオタニのために特別ルールを作ったのである。
シアトルのT-Mobil Park球場の山のように高いセンター外野席の安いシートに独りで座ってこの記事を書きながら、私(カート・ストリーター)はたった今見たことをどう整理しようかとと苦闘している。

 さて、ロサンジェルス・エンジェルスのたくましいピッチャー兼ホームラン・バッターでもある、大谷翔平はメジャーリーグの長い歴史の中でも稀に見る、ユニークな選手である。そのオオタニがスタジアムを埋める、すべてのファンに畏敬の念を抱かせ、茫然とさせたほどの力で本塁打をかっとばしたのだった。ボールは上空に向かって急上昇して行った。
この暑い夜の対戦相手である、シアトル・マリナーズの野手たちは、オオタニのボールを追跡するために首を伸ばした後、視線をグランウンド戻して悲しげに頭を垂れた。集まったファンたちは飲み込んだ息を一気に吐き出したが、それはあたかも気球の空気を抜いたときのような騒音になった。
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                写真(www.en.wikipedia.org)
「おーマイゴッド!なんて凄いホームランなんだ」とファンの一人は隣の友人につぶやいた。オオタニのボールはコンクリートの階段にぶつかる音が聞こえたほど、私のシートの近くに落下した。球場の案内係は、「俺は10年以上、この球場で働いているが、ボールがこれほど高く、しかも激しく打たれたことはかつてなかった、と私に断言した。私の席から見えるホームプレートはまるで1マイルの遠方に見えていた。人間があそこからここまでボールを打つことは不可能に思えた。
 これは驚くほどのことではない。ショーヘイ・オオタニは今シーズン中、ずーっと不可能を可能にしてきた。彼は打席でもピッチング・マウンドでも盗塁、バントまで何でも軽々やってのける。現在27才のオオタニは、すべてのスポーツの中で最大のスペクタクルの一つであることに議論の余地がない。

  7月12日(米国時間)オオタニはデンバーのクアーズ・フィールド球場でのホームラン・ダービーに出場、翌14日、オール・スター・ゲームでアメリカン・リーグの先発投手を務めた後、すぐさま一番打者として打席に入る。
彼がこの調子を続ければ、彼にとっての最高のシーズンを完了することは間違いない。

 さて、シアトルのゲームに戻る。オオタニのセンター外野席上段に落下したホームランは、彼の33号本塁打だった。彼はホームラン数でリーグのトップであり、このまま行けば、バリー・ボンズの年間ホームラン記録、73本(2001年)を超える可能性がある。とにかく、今シーズンの彼はホームラン記録を易々と更新している。

 オオタニは世代を超えた、球界初の正真正銘の二刀流選手であることを証明しつつ、かつチームに貢献している。オオタニは現在、メジャーの最高の投手の一人と見なされている。7月第一週、彼がボストン・レッド・ソックスで勝利投手となって、記録を4勝1敗に押上げた夜、彼の投球の75%近くがストライクだった。彼は火の球のような速球にゆるいカーブを混ぜて打者を翻弄した。これは単にボールを投げるということではなく、まさに芸術の域に達していた。
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                写真:(www.foxsports.com)
 試合後、エンジェルスのジョー・マドン監督は、オオタニを米野球界の巨人中の巨人と比較し、「我々は皆、ベーブ・ルースを見て、聞いて彼を実物以上に美化、神格化している。しかし、我々はいま、ベーブが再来したようなオオタニを見て、ベーブ・ルースってこうだったんだ、とみんなで夢みているよ」と語っている。監督は続いて、「我々がいま見ていることを過少評価しないでください。米球界はオオタニを必要としている。いやアメリカもいま、オオタニを必要としているのです」と語った。
いま、メジャーリーグは不況にあえいでいる。野球の人気は最近、かつてのような幅広い人気はなく、そのうえ、コロナのパンデミックに直撃された、のは他の業界と同様である。
だから、野球界はいまオオタニが必要なのだ。いや、アメリカもオオタニを必要としている。

 6フィート4インチ(193センチ)、95㌔で快足のオオタニは日本でスター選手となった後、ロサンジェルス・エンジェルスに入団、2018年にアメリカン・リーグの新人王に選出された。しかし、怪我とコロナ禍により、彼の才能がアメリカで完全に開花する機会はなかった。

 中国発のパンデミックは、アメリカに狂気をもたらした。その結果、アジア系アメリカ人即ち、アジア大陸にルーツを持ち何世代に亘ってこの国に住む人々は、息苦しい状態で日々を過ごしている。ときにはヘイトクライム(人種的偏見に基ずく犯罪)に、ときには醜い差別の急増に直面している。
 こんな恐るべき環境で、我々はアジア系アスリートである、オオタニがアメリカの「国技」ともいえ、大衆娯楽の王者である、ベースボールを完全に制覇するのを見ているのだ。

 「オオタニはアメリカの英雄の一人である、ベーブ・ルースと常に比較されるが、確かにその価値はある」。とロサンジェルスの有力な日系市民であり、野球ファンのロン・ワカバヤシは語る。
ベーブ・ルースはアメリカ人の魂に深く刻みこまれている男である。オオタニが成し遂げていることが、ベーブと比肩される、ということは、我々日系社会にとって、とてつもない意味があるのです。特に、この時期にあっては…。」とワカバヤシは語った。

 私は先週、多くのアジア系アメリカ人のリーダーたちや野球ファンと話す機会があった。そのうちの一人は今年、彼が住職を務める仏教寺院が暴徒たちに破壊されていた。アジア系住民の絆と生活を守る闘争史を専攻する、オオタニ・ファンの大学教授とも話すことが出来た。マリナーズ球場でも多くの父母たちと話し合いを持った。そして、幾度も幾度も、偏見の高まりに関する恐怖と痛みを聞かされた。

 しかし、良い話、希望にあふれたことがらも聞くことができた。
今シーズンのオオタニの素晴らしい活躍がいかに多くのアジア人特に日本人を勇気づけ、癒しを与えたかを聞くことができた。
ワカバヤシはこのことを簡潔に説明してくれた。彼は幾つかの反アジア人種への襲撃が発生した、ロサンジェルスのコミュニティーでいつも散歩している。毎日歩く、3マイル(5㌔)の散歩中、彼は前後を警戒しながら歩くという。そんな物騒な環境で彼らは暮らしているのだ。
一方、その散歩中、彼はオオタニについても考えている。彼はオオタニの強さと根性について考える。偉大な日本人選手は何事にも決してひるむことなく、しかも後ろを振り向かない。
この激動の時代、オオタニの強さと根性は、アジア人がほとんどいない米国野球界における活躍によって、世の中に少しだけだが、安らぎと元気を与えている。
私は自問する。「スポーツにそれ以上のことが出来ますか?」。出来ない、と思う。
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              写真:(www.news.yahoo.co,jp)
 英語が話せないオオタニは、通訳を通してスポーツ・メディアとコミュニケーションをとっている。だから、アメリカにおける差別や怒りの高まりに対しても沈黙を保っている。彼は彼以前の多くの日本生れの偉大な野球選手たちと同様に、野球以外のことに対して慎重に対処している。
 しかし、それでいいのだ。彼は力を発揮するために、声を上げる必要などない。オオタニは彼のピッチングとバッティング、即ち洗練された「二刀流」を駆使して、メジャー・リーガ-を圧倒し、野球界の話題を独占していることが、それを雄弁に物語っているではないか。
(終わり)

アメリカ小話

          老牧場主、60才差の美女と結婚

 

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                                             写真:(www.freepik.com)

【蛇足的まえがき】

光輝高齢者の男性が50才も若い花嫁をもらう小話は、アメリカでもメキシコでも最も人気があるテーマの一つである。日本でも剣客商売の秋山小兵衛が41才も若い「おはる」を後添えに迎えて、我々光輝高齢者を羨ましがらせてくれる。

 アメリカは結婚したカップルの50%が離婚する、と言われる。従って、再婚するカップルも必然的に多い。年取ってから女房を亡くした男性が、50才差の女性と結婚するのも珍しくない。まぁ、女性の方は23年我慢すれば、遺産が入るなどと考えているのかもしれない。さて、今回の牧場主の嫁取りが「吉と出るか凶と出るか」。以下の小話をお楽しみください。

(テキサス無宿記)

 

    一笑一若・アメリカ小話老牧場主、60才差の美女と結婚」

 

 80才の牧場主が芳紀20才の女性と結婚寸前である。

彼の親友であり相談相手でもある地元の銀行家は、友人がそのような若い花嫁と一緒に暮らして、長続きするだろうか、いやそれが友人の幸せになるのだろうか、と心配どころか、友人の身を思うと、恐ろしくなってきた。

 

 そこで友人の結婚の幸せが長引くようにと、銀行家は友人に、牧場の仕事を手伝ってくれる、助手を雇ったらどうだ、と提案した。ひょっとしたら、助手は寝室でも牧場主の夜のお勤めの手伝いもしてくれるだろう、と銀行家は考えたのである。

 

 牧場主は即座に「それは良い思いつき」だと言って、アイディアを採用した。

 

 4ヵ月後、銀行家は友人の牧場主に電話して、「新婚生活はどうだい?」と訊いた。

「二人とも大満足している。それに女房は妊娠したよ」と老牧場主は得意げに答えた。

銀行家は心得顔に、「それはおめでとう!そう、そう、助手はどうしてる?」と訊いた。

 

牧場主は「おお、彼女も妊娠したよ」と答えた。

 

お後がよろしいようで…。


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「国民を食い物にする左翼政権、メキシコ警察編
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                 写真:(https://bbc.com) 
 ペルーで教員組合出身の極左派のカスティーヨ氏が大統領に決まりそうである。4月11日の選挙で決着がつかず、決戦投票がケイコ・フジモリとの間で6月6日に行われたが、中道右派のフジモリは0.24%の差で二位。6日現在、選挙管理委員会の結果布告は未だ出ていない。

 さて、ケイコ・フジモリは対立候補のカスティーヨを共産主義者と呼んでいる。実際彼が共産主義者かどうかは知らないが、極左派であることは確かである。ラテンアメリカ諸国では、反米、反資本家を標ぼうし、労働者、農民、インディヘナ(原住民)の味方であることを旗印として、政権を獲得する極左政治家が多い。ところが、そう言う人物に限って大統領になると、国民を食い物にして、選挙公約など忘れてしまうのである。

メキシコを初めとする、ラテンアメリカ諸国における法慣習の特徴の一つは、憲法によって、大統領の法的責任からの免責が認められていることだ。「免責」は旧宗主国スペイン、ポルトガルの置き土産であり、原語でInmunidadまたはfueroと呼ばれる制度である。この語には「免疫」の意もあるが、これが汚職のなくならない原因かもしれない。ただし、メキシコにおいては1917年以降、免責は8回しか実行されていない。
今回ペルーで左翼系大統領が誕生する可能性があるので、日本の皆さんには馴染みのない、この種の政治家、官僚の実像をお伝えすることにしたい。

                 左翼政権の実態
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              写真:(www.turismodemexico.com)
 話を進める前に、一つのエピソードをご紹介したい。それは、30年前のことだった。メキシコの世界的海浜リゾートのアカプルコが千葉県御宿町と姉妹都市となる記念式典に参列する、旧知の同市の副市長から、日本と御宿に関する情報を教えて欲しい、と依頼された。
 その際、副市長が「人口60万のアカプルコ市の予算の90%は人件費である」と明かしてくれた。何度も聞き返したから間違いない。「なぜそんなことが可能か」との私の問いに、市長は彼の所属するPRI党の幹部からの要請で、多数の幽霊職員(スペイン語では落下傘部隊と言う)を抱えているからだ、という。その多くは党幹部の二号、三号というから話にならない。それでは、国際的観光地である、アカプルコのビーチの整備費用はどう工面しているか、と訊いたところ、「ビーチとその周辺は連邦地区なので、メキシコ政府が整備、清掃等すべてを担当しているので、問題はない」とのことだった。
PRI党は革命政権だが、かつて彼らは彼ら自身を革命家族と称し、国を彼らのファミリー・ビジネスと見なしているのだ。左翼とはこういう存在なのである。

                黒いデュラソの闇
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                写真:(www.tabeosfera.com)
 さて、今回取り上げる人物は、大統領でも政治家でもないが、1976年~1982年まで1500万の大都市である、メキシコ・シティーの警視総官を務めた、アルツーロ・ネグロ・デュラソである。ネグロは黒を意味し、肌の色だけではなく、黒いうわさが絶えない、という意味のあだ名だった。何しろ、彼は「国民を食い物にする」ことに関しては、特別な存在で、彼の死後、「黒いデュラソの闇ー犯罪史」という実録が書かれ、後に映画化されたほどだった。

 デュラソを知ったのは、私の英会話の先生がたまたまメキシコ市警視庁幹部にも英会話を教えていたのが縁だった。「日本食を食べたい」という警視総監を私が勤務していた会社のレストランに招待したのが付き合いの始まりだった。1970年代のメキシコ市には日本レストランは日墨会館以外にはなかったのである。
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              写真:(www.kazusa.jpn.org/b/wp)
 当時、メキシコ市はメキシコ市連邦区と呼ばれ、そのトップは大統領の任命する閣僚であり、警視総監も大統領が任命する特別職であった。当時のメキシコ大統領のホセ・ロペス・ポルティーヨは左翼政党PRI(制度的革命党)生え抜きの政治家だった。同氏は昭和53年11月、国賓として来日した際、千葉県御宿町のメキシコ公園を訪れて、神輿に乗って住民から大歓迎を受けた。デュラソもこのとき、大統領について訪日している。それ以来デュラソは大の和食好きになった。メキシコ大統領とアカプルコ副市長がそろって御宿町とつながりがあるのは、1609年、同地に漂着したスペイン船が取り持つ縁だった。

本来、メキシコ市の警視総監は陸軍将官が任命されるのが慣例だったが、ロペス・ポルティーヨ大統領は、軍歴もない彼の小学校の同級生だった、デュラソを任命した。小学校時代、優等生だったが、体が弱く悪ガキたちからいじめられ放題だった、ロペス・ポルティーヨ少年の用心棒を買ってでたのが、体格のいいデュラソだった。そして、50年後、大統領は「用心棒」を警視総監に任命して恩返しをしたのだった。
 ただし、公安、警察部門では一応の出世はしていたが、将官ではなかったデュラソは、大統領から特例として陸軍大将に任命され、警視総監になれたのだった。なお、後年、メキシコ陸軍はデュラソの大将の称号をはく奪している。
以下の情報は私がデュラソ及び彼直属の部下から直接聞いた話を基に書いたものである。

                 メキシコの警察組織
 メキシコの警察は、日本の警察と違って、連邦、州を問わず、刑事部門は検察庁直属の司法警察が担当している。従って、警察は「生活安全、交通、警備等」がその主たる任務となっていた。特に交通警察は彼らの「宝の山」であった。という訳で、以下の情報は、ユニフォームの色から、とび色のマメ科の植物タマリンドの愛称で呼ばれた、交通巡査に関するものである。タマリンドと呼ばれた彼らは映画にもたびたび登場して、大衆の人気者だった良き時代もあったのである。

 ある日、デュラソは我々との食事会で、彼の部下の一人に、「おい金貨のカバンは重過ぎるから小さいカバンに分けて入れるようにしてくれ」と命じていた。これを解説しよう。
メキシコ市警察のトップクラスの局長級は毎月、末端の巡査、下士官、士官(メキシコの警察の階級は軍隊式に軍曹、中尉、少佐等と称している)から集まる「上納金」をメキシコのセンテナリオと呼ばれる50ペソ金貨(直径3.7センチ、重量37.5グラム、時価2500米ドル)に両替してカバンに詰め込んで総監に届けていた。
 
 すなわち、末端の巡査から始まって、すべての「位」には当然のことながら、値段が付いている。そして、下から順繰りに各々直属上官に定められた「上納金」を納めるのだ。これがピラミッド方式によって、最上級の師団長(局長)まで上がって行くのである。数人からなる師団長クラスは、毎月現金を金貨(センテナリオ)に換金してカバンにつめてデュラソに上納する。これが重過ぎるから分けろ、と総監は苦情を言ったのだ。
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              写真:(www.diariomotoe.com.mx)
 メキシコで交通巡査に車を止められると、「袖の下」で解決できるのが当たり前の習慣になっているのは、この悪習が原因なのだ。この袖の下が順繰りに総監にまで上がっていくのだ。

地位だけではなく、その他に交通整理をする巡査は、交通量の多寡によって、交差点に値段がついている。東京に例えれば、銀座の交差点は高く、場末の交差点は安い。
 また、パトカーも白バイも当然値段がついている。これもピラミッド方式によって、金貨に替えられて総監に届くわけである。
従って、末端の交通巡査は、頻繁に「ピー」と笛を吹いて違反車(?)を止めて袖の下を稼がざるを得ない。恥ずかしながら、「袖の下」はメキシコの文化とまで言われる所以である。

しかし、私が最も驚いたことは、デュラソは警官に支給する制服、靴、帽子等を彼らに買わせていたことである。流石にこれには開いた口が塞がらなかった。ただし、ピストル、銃器は貸与するので、金は取らない。当たり前だが…。
まだ、デュラソの錬金術は他にもある。車のナンバープレートはどこの国でも最初に支給されるときに支払うだけである。ところが、メキシコは毎年、新しいプレートを購入するシステムになっている。これも、彼のビジネスになっている。
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             写真:(www.elheraldodepuebla.com)
 デュラソは豪壮な自宅の他に、太平洋岸、カリブ海岸に豪華な別荘を数軒建設した。その際、数百人のメキシコ市の警官たちを別荘建築の作業員として使用したのである。これは自慢げに彼が私に話したことである。
 
               デュラソの国外逃亡、逮捕
 悪名高い総監だったが、彼は頻繫にナルコ、即ち麻薬ギャングの本拠を探り出して、大量のコカイン等を摘発する手柄も立てたので、「やり手」の印象を与えていた。だが、これには裏事情があった。すなわち、麻薬ギャングたちはやくざと同様に縄張りがある。これを利用して、彼は一部のギャングと意を通じて、彼らの敵対勢力の情報を引き出して麻薬摘発を行い、彼の友人であるギャングの犯罪は見逃していたのだった。当然十分な見返りがあった。

 まだまだあるが、もうこの辺で止めておこう。事情を知るにつけ、不愉快になった私は英会話の先生と縁を切ったので、自然警視総監とは疎遠になった。
1982年、任期満了で退官したデュラソは次期政権の調査の手が伸びていることを知って、自家用ジェットで国外へ逃亡した。
だが、1986年、FBIによってコスタリカで逮捕された。彼は汚職、恐喝、脱税、密輸、麻薬販売、所持等の罪科で16年の実刑判決が言い渡された。だが、獄中で病状が悪化したため、10年の刑期を残して釈放された。ネグロ・デュラソは2000年、アカプルコで亡くなった。享年76だった。

  一方、デュラソの竹馬の友だった、ロペス・ポルティーヨ大統領の在任中、石油ショックにも関わらず、石油を持つメキシコは史上最高の経済成長を遂げた。当時、世界中が巨大な石油収益を持つメキシコに先を争って、借款を供与したものだった。あの当時、ハトバスで東京見物した私は、バスガールさんが、「右手の高層ビルにはメキシコ大使館が数戸お買い上げになって話題になった、東京で一番高い億ションがございます」と案内したほど、メキシコ政府は石油景気に舞い上がっていた。
数年後の1981年、原油が暴落すると、メキシコ財政は破綻をきたし、ペソも暴落したため、国民はペソを売ってドルを買いこんだ。その挙句、大統領は、「犬のごとくペソを守る」と宣言して、全ての銀行を国有化したのである。文字通りメキシコは天国から地獄へ転落し、ロペス・ポルティーヨ大統領は大統領の人気ランキングでは常に最下位の評価を受けている。
(終わり)

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