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アメリカ便り Letters from the Americas 様々なアメリカ&メキシコ事情と両国の小話

カテゴリ: ラテンアメリカ

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「泥の上を這ってもアメリカへ行きたい」

 

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  写真:ソン・ジンカイ氏撮影

【蛇足的まえがき】

先々週のアメリカ便り2022年、米墨国境の不法越境者」を書くにあたって読んだ、米国、メキシコの資料によって、筆者の知らなかった、不法越境者問題に関する、驚くべき多くの事実を学ぶことができた。そこで今回は、筆者を感動させた、勇気あるな中国人一家のケースをご紹介することにしたい。

結論から書くと、彼らは不法越境ではあるが、無事米国へ入国できた。一家の主人の感想は、南米、中米の恐るべき熱帯雨林の道なき道を這って通った苦難より、母国を出国することの方がはるかに難しかった、という。筆者が驚かされたのは、彼らの採った米国へのルートの意外さと不法越境した国境の数だった。詳しくは本文でご覧いただきたい。(テキサス無宿記)

「泥の上を這ってもアメリカへ行きたい」

 

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  写真:(https://www.bbc.com)

3年間も続いた、中国のゼロ・コロナ政策による、感染者が出た都市の全面的ロックダウンと政府の独断、高圧的対応によって、職を失った多くの中国人たちは、他国に移住して家族のために人間らしい環境と子供たちのためにより良い将来を確保しようと考えるようになった。彼らは見知らぬ他国への渡航による、生活の不安、生命の危険をも覚悟のうえだった。


ソン・ジンカイ(Sun Jincai-35才)もそんな一人だった。彼は決死の覚悟で妻と6,9,11才の3人の子供たちを連れて米国へ渡ることを決意したのだった。中国では海外渡航はもちろん、旅券の交付もきびしく制限され、「急を有し、絶対的に必要な場合」のみ許可がおりる。そのうえ、コロナ対策により、2021年の国際線就航は2019年より97%減便されていた。


昨年4月のコロナ禍による、新たな上海のシャットダウンにより、祖国に見切りをつけた、多くの中国人の海外移住熱は一気に盛り上がった。だが、移住を模索する人々は「渡航、移住」という代わりに、遠回しに「ゾーシアン(Zouxian)英語風発音」という隠語を使って当局の監視を逃れている。そして、多くの中国国民は、コロナ対策に関する、政府の過酷な政策が今後も続くことを見込んで「国外脱出」への踏ん切りをつけたのだった。


「ゾーシアン」即ち移住を目指す人々のSNS上の議論は、学歴、特殊技能と投資によって外国における居住権を獲得することに集中していた。だが、ソン・ジンカイのように特殊技能も資金等の合法的移住に役立つ手段を持たない者たちは、無謀な旅を企てざるを得ないのだった。


ソンはインターネット、TwitterLine等を通じて、すでに米国への移住を完結できた人々による、最小限の「身の回り品」のリストから始まる、各種の旅行に関する指導、援助を受け、「移住(Zouxian)に必要な旅券、出国許可、飛行チケットをGetでき、ドルの換金法、本国、米国の移民法に抵触しない方法等を学んだのである。

だが、WeChat(微信)の検閲を避けるために、彼ら自身のチャット・グループを結成して、SNSを使わずに電報を利用している人々もいる、という。

 

BBC News MundoBBCスペイン語版)の記者はソンに直接会ったことはないが、ソンが発信するSNS上の情報で中国を出発したことを知った。ソンは「我々の幸運を祈って欲しい」と記していた。ソン一家の最初の寄航地はマカオだった。続いて彼らは台北に飛び、更にタイを経てトルコのアンカラに到着した。

コロナ禍に悩む中国人は、ヴィザの交付が受けられずに入国できる国が限られているため、このようなジグザク・ルートになるのだ。

 

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   写真:(https://www.naturalworldsafaris.com)

アンカラから一行は南米エクアドールのキトーに到着した。米国を目指す彼らがエクアドールに飛ぶとは奇異な印象を持ったが、米国、メキシコはもちろん、大部分の中南米諸国は、コロナ禍に見舞われている中国人にはヴィザを発行しないのである。やむなく、孫たちは中南米で唯一中国人を受け入れてくれる、エクアドールをアメリカ大陸への上陸地に選んだのである。

 

マカオを出発して数週間後、ソンは近況をSNSに投稿している。彼の子供たちは、喜々としてマカオ空港の大理石の階段を飛び跳ねるように降りて行った、と記している。マカオからは台北、タイを経て中国人の入国が認められている、トルコに到着した。ソンはトルコの桃色に染まった海辺の夕陽の写真をSNSに投稿している。次の寄航地は南米エクアドールの首府キトーだった。ここで彼らは、「決死的旅路」の最難関地への出発前に束の間の観光を楽しんだのだった。

 

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   写真:(www.gettyimages.com)

数日後、ソン一家は旅路の最難関である、エクアドールの隣国コロンビアと中米パナマ間にまたがる、ダリエン地峡(El Tapon del Darien)へ向かう大型ボートに、世界中からの移民たちとともに乗りこんだ。下船すると、今度はロバがひく馬車に乗って、道なき熱帯雨林への入り口に向け北上した。

 

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  地図:(www.cplumbia.maps.com

ダリエン地峡は、コロンビアに隣接するパナマ国内に広がる熱帯雨林地域である。この地帯は人間の侵入を許さない鬱蒼たる密林のため、カナダとアルゼンチンを結ぶ、パンアメリカン・ハイウエイもこの区間は未建設である。ここは地球上まれに見る、生物多様性が観察できる地域であるとともに、7つもの原住民族が居住する地域でもあることを配慮して、パンアメリカン・ハイウエイは工事を中断し、ハイウエイを通過する車両は、100㌔先の地点までフェリーで運ばれる仕組みになっている。

当然、この密林地帯には一本の道路もないため、難所には違いないが不法越境者及び麻薬運び人たちには好都合な「ルート」になっている。

 

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    写真:(https://www.bbc.com)

SNS上のソンのダリエン地峡に関する書き込みは続く。ソン一家が密林のなかを歩いていたとき、他国の移民仲間が孫の6才の子の手を引いてくれたことが記されていた。

ソン親子の写真もアップされたが、最も危険な瞬間は写真を撮る余裕はなかった。ある日、ソンの妻が腰まである川を横断していたとき、強い濁流に足を取られて溺れそうになった。そのとき、三人の南米人男性が、川に飛び込んで彼女を救出してくれなかったら、彼女の命はなかった。言葉の壁によって、ソンは十分にお礼も言えなかったが、密林を這って通った人々には連帯感が生まれていた。ソンたちがおよそ100㌔のダリエン地峡を通過するには8日かかった。

 

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   写真:(https://www.hellolanding.com)

ソン一家はついにカリフォルニアに無事到着できた。米墨国境のサンディエゴだ。

ソンは妻と子供たちに、「メキシコの国境警備隊に逮捕されなくて良かったね」と幸運を喜びあった。彼らが今回、不法越境した国々は8ヵ国にもなる。即ち、

南から順番に列記すると、コロンビア、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコそしてアメリカである。

 

彼らはグアテマラ国境から最も遠い、カリフォルニアを目的地にしたのは、カリフォルニア州の米墨国境地帯に19世紀中旬以来、住み着いている強力な中国人社会を頼って行ったものと、思われる。彼らの手引きで「不法入国者」のソンが就職もできたのは幸運だった。母国を出てから早くも3か月が経っていた。その間の全費用は8,000ドルだった、というから「ミッション・インポッシブル」の長旅は案外安くついたといえる。
そして家族そろってアメリカに無事安着出来ことは、ソン一家に対する何よりのご褒美だった。  (終わり)

参考資料el creciente numero de mograntes chinos que atraviesan la selva del Darien para llegar a EE.UU. (BBC Mundo)

     Chinese immigrants in the USA (MPI)


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        ペルー日本大使公邸占拠事件(下)

 

          ペルー奇襲部隊の突入開始

 

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            写真:(https://www.caretes.pe/hemeroteca/

ペルー日本大使公邸占拠から4か月以上経過した1997422140名のペルー陸軍士官からなる、チャビン・デ・ワンタールと命名された、極秘奇襲部隊の日本大使公邸への突入準備は整った。チャビン・デ・ワンタールとは数本の地下道があることで有名なペルーの古代遺跡であり、フジモリは1月初旬、この遺跡の夢を見て、トンネル掘削を思いついた、と言う。

 

 1523 チャビン・デ・ワンタール部隊の作戦が開始された。大使公邸1階の三か所に仕掛けられた、爆発物がほとんど同時に爆発した。

最初の爆発はテロリストたちがサッカーをしていた、広間の真ん中で起こった。

たちどころに3人のテロリストたちが死亡した。サッカーをしていた者が2名、サイドラインで応援していた少女隊員が1名だった。

 

 爆発で出来たこの穴と他の2か所の爆発で作られた、壁の隙間から30名の奇襲隊員が邸内に突入してきた。彼らは生き残りのMRTAメンバーが人質のいる二階に上がることを阻止する使命を帯びていた。

これらの爆発と同時に、他の2か所でも作戦が開始された。第一は20名の奇襲隊員が正面玄関のドアを爆破して待合室に突入後、2階へ通じる階段を封鎖した。その際、正面玄関を警備していた2名のテロリストたちを倒した。

 

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写真:(https://www/caretes.pe)

 第一波の突入に続いて、梯子を持参した別のグループは、公邸の裏側の壁に梯子をかけた。

突入は整然と計画とおりに進行していた。最後のグループは、公邸の裏庭に開けられたトンネル出口から現れると、彼らのために壁に立てられた梯子を素早く2階へと昇って行った。彼らの任務は二つあった。一は2階の防弾ドアを爆破して、2階にいる人質を救出すること、二は天井に二つの穴を開けて、天井裏に潜むテロリストたちが人質に発砲することを防ぐことだった。

 

 チャビン・デ・ワンタール部隊の突入によって、14名のMRTAテロリストたちが殺害され、不幸にも人質だった最高裁判事のカルロス・アクーニャと2名の士官、サンドバル・ルイス中佐およびラウル・ヒメネス中尉が戦死したが、71名の人質は救出された。

 

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写真:(www.larepublica.com)

 米国国防情報局(DIA)によると、MRTAナンバー2のロリ・ロハスは人質たちに紛れ込んで逃走を図ったが発見された。一隊員がロハスを拘束して、公邸の後方に連行すると、半自動小銃の連射によって頭部を吹き飛ばした。DIAの電信によると、奇襲隊員はロハスの頭部に1発だけ発射するつもりだったが、エラーによってこんな結果になったため、隊員はロハスの遺体をネストール・

セルパの遺体の下に隠すように放置した。DIAは突入後、他のMRTAメンバーも同様に処刑された、と報じた。

 

突入の際のフジモリの命令

 

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写真:(https://www.caretes.pe/hemeroteca/)

 DIAの報告書によると、アルベルト・フジモリは公邸突入前、直々に急襲部隊員全員に「テロリストたちは捕虜にするな、殺害せよ」と命令していた。

 人質救出の終了後、公邸の屋上に掲げられていた、MRTA旗が奇襲隊員たちによって降ろされたとき、フジモリは幾人かの人質とともにペルー国歌を歌った。ペルーのTV局はテロリストたちの死体の近くを歩くフジモリを映していた。中には手足が切断されたテロリストたちの遺体があった。

 

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写真:(https://www.elpais.com

 また、フジモリは公邸の広間の階段わきに置かれたMRTANo.1のセルパとNo.2のロハスの遺体を前で写真を撮らせた。ロハスの頭部は銃の乱射で吹き飛ばされていたので、認知できない状態だった。邸内を一回りしたフジモリは、救出された人質が乗ったバスに同乗して満足げに公邸を後にした。

 

 チャビン・デ・ワンタール部隊の軍事的勝利は政治的偉業として報道され、大統領のテロリストに対する厳しい姿勢を補強するのに役立った。フジモリの支持率は倍増して70%に迫り、彼は一躍国民的英雄となり、批判するものはいなかった。

 勝利の熱狂が落ち着いたころ、詩人のアントニオ・シスネーロスは、この大成功は、ペルー国民の自尊心を少し高めた、と書いた。

とにかく、誰もこの作戦の見事さ、スピードを予想したものはいなかった。軍隊用語で言えば、この作戦は第一世界の仕事であり、絶対にペルーのような第三世界の国が出来る仕事ではなかった。

 

 フジモリは人質救出作戦の成功を一人占めした感があった。ペルー日本大使公邸占拠事件が起きた直後の19961217日付けのエル・コメルシオ紙記者の行ったフジモリのインタービューで、大統領は人質奪還作戦についてペルー情報機関のトップである、フリオ・サラサール、大統領顧問のモンテシーノ及びペルー軍統合参謀本部のニコラス・エルモサたちと公邸占拠直後に相談した、と語っているように、平和的解決は彼のプランには入っていなかった。

とにかく、フジモリ、モンテシーノとエルモサによる、軍主導のトロイカ体制が当時のペルー政治を牛耳っていたので、この事件は三人にとって屈辱以外の何ものでもなかった。

 

外国の関与と内外の反応

  

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救出作戦の一部始終右上はトンネルの出口   写真(www.larepublica.com)

 

 米国とイスラエルがペルー軍に対して、日本大使公邸突入作戦への援助を行ったという情報が伝わってきた。

米国国務省のスポークスマン・ニコラス・バンは、突入に関して米政府は一切関与していない、と主張した。だが、1997423日、元FBI情報員のボブ・タウベルはCNNの記者に「ペルー軍は昨年の12月から米国内某所において、突入に関する訓練を受けた」と証言した。タウベルは更に「ペルー奇襲部隊隊員たちは、訓練されたとおりに作戦を実行した。私は彼らを大変誇りに思う」ともコメントした。

 

 一方、米国のCIAは「公邸突入作戦を実行した、ペルー軍に何らかの援助をしたか?」とのマスコミの質問に「ノーコメント」だった。しかし、ペルーの消息筋によると、CIA及び他の米国情報機関はペルー軍の対反乱分子作戦に深く関与している、と語る。

例えば、CIA1992年にペルー秘密警察が行った、極左ゲリラ組織センデーロ・ルミノーソのリーダーだった、アビマエル・グスマンの捜索、逮捕にじきじき参加していた、例があると語っている。

 

では、外国政府、特に同じ南米大陸の政府は、この救出作戦をどう見ているか、見てみよう。総じて軍事作戦は好意的に見られている。コロンビア、ボリビア、チリー、ヴェネスエラの大統領たちはフジモリの決断を支持している。彼らにとって、ペルーの事件は対岸の火事と見過ごすことが出来ない現実なのだ。

 

隠された占拠事件の真相

 以上、占拠事件をペルー側の視点から見てきた。次に日本の記者が現場で見聞きした情報をお届けしたい。記者の名は青山繁晴(共同通信)であり、現在は自民党所属の参議院議員である。同氏はペルーで120日以上、報道に携わった唯一の記者でもある。この情報は青山の番組である、チャンネル桜の「ペルー日本大使公邸占拠事件の隠された事実(2012/6/14

https://www.nicovideo.jp/watch/sm18096826

 内で青山が語った、ある筋から得た、隠された事件の真相である。彼がこれらの真相を公に出来たのは、事件の15年後のことだった。

 

  日本大使公邸が占拠された、19961217日の2日後、早くも池田外務大臣はペルーの首府リマに到着した。20日、MRTAのリーダー・セルパから日本側に連絡が入った。「池田大臣に公邸に来て欲しい。我々は池田と他の人質との交換をしたい。彼が残れば、他の人質は解放する」

と提案してきた。ところが、東大法卒の大蔵官僚で池田勇人の婿養子の池田行彦は直ちにNOと拒絶、「ぼく帰る」と言って、翌日帰国してしまった。日本は千載一遇の「平和的解決」の機会を失ったのだ。この件は、池田の通訳をした、寺田大使の「外交回想録」には書かれていない。

 

 この事実を知ったフジモリは「今や日本の武士道精神は廃れたのか」と嘆き、これ以降度胸のない腰抜けの日本人をすっかりなめてしまった。何よりの証拠は、公邸突入に際し、フジモリは日本側に公邸突入の許可どころか、事前通告さえしなかったことだ。

フジモリは日本が主張する平和的解決を隠れ蓑にして時間を稼ぎ、強行突入のためのトンネルの掘削を開始した。

 

事件解決後、「日本は平和ボケして、いざ鎌倉へのとき、尻込みする弱虫だ」との国際的評価が確立されてしまった。

私はよど号事件の際、当時運輸政務次官だった、山村新治郎がただ一人100名の日本人人質の身代わりになったエピソードを思い出していた。

  

  強行突入決行の午後、日本人人質は二階の一室に集まっていた。入口には145才の少年テロリストが半自動小銃を構えて見張っていた。

すると、階下で爆発が起こり、怒声が聞こえたので、少年はペルー軍が突入したことを知った。彼が引き金を引けば、人質全員が殺害されただろう。だが、少年は引き金を引くどころか、銃を持って後ずさりし始めた。

 この4か月の間、日本人たちはジャングル育ちで親から50ドルでテロリストに売られた少年を「人間として扱ってくれ、囲碁を教え、ギターを弾いて一緒に歌を唄う仲になっていた」。そんなアミーゴになった日本人を彼は撃てなかった。やがて、二階に駆け上がってきた、ペルー軍に少年は射殺された。人質は一人を除き全員生き長らえた。少年のおかげで奇跡が起こったのだ。フジモリにとって、突入による人質の犠牲は想定内だったからだ。

 

  テロリストのリーダーとサブリーダーの死体の喉は、十文字に切断されていた。これはインカの習慣で、政府に逆らうと、こうなるぞ、という見せしめだった。

この映像はTVにしっかり放映させた。占拠していたテロリストの中に145才の少女が二人いた。サッカー試合を応援していた少女は、爆発で死亡したが、もう一人の子(この子も50ドルでMRTAに売られた)は両手を挙げて投降してきたところを、隊員に逮捕された。隊員は少女を戸外に出して、TV、記者たちに顔を見せた後、室内に連れ戻り、両手を切断して、血まみれの少女は強姦された。その後、少女は両足も切断された。これも政府に反抗するとこうなるぞ、という見せしめだった。

 

公邸占拠事件の教訓

 

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写真:(https://www.es.academic.com)

 さて、以下は、ラテンアメリカ政治の専門家・パス・ベロニカ・ミレ教授による、ペルー日本大使公邸占拠事件の総括である。

ペルー日本大使公邸占拠事件は三名の犠牲者を出したが、大多数の人質の救出に成功した。しかしながら、今回のMRTAの公邸占拠事件が示したように、武力によってペルーの反政府勢力を根絶して、平和と秩序を取り戻すことは容易いことではないと分かってきた。

なぜならば、これらの反政府運動の温床になる、ペルーにおける経済的格差、高い文盲率、人種差別等の問題は簡単に解決出来ないからだ。だが、これらの問題を根本から改革しなければ、反政府闘争は終わらないのだ。

 政治分野における、フジモリの評判は公邸占拠事件後まもなく下落し始めた。

国民はフジモリと奇襲部隊員たちが執った、救出時の強権的行動に拒否反応を示し始め、政府の著しい権力主義と大統領への極端な権力の集中にペルー国民は批判的になってきた。

 

 ペルー日本大使公邸占拠事件を経験して、ペルー国民は経済的繁栄以上に、民主主義的かつ組織的な政治体制の確立と平和で安全なペルーの出現を欲するようになってきた」。(終わり)

 

参考資料: 

Wikipedia: La toma de la residencia del embajador japones en Lima 

Peru,una crisis con amplias repercusiones,   Paz Veronica Millet 

La toma de la Embajada (escribe Fernando Rospigliosi y Jimmy Torres) 

ペルー日本大使公邸占拠事件の隠された事実(2012/6/14) 青山繁https://www.nicovideo.jp/watch/sm18096826


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「ペルー日本大使公邸占拠事件」 (中)

フジモリ大統領「非人道的暴挙」と非難

 

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    写真:(https:www.rpp.pe.com

蛇足的まえがき】

大昔、ペルーに行ったことがある。学生時代、三笠宮先生の「インカ帝国」の講演を聞いたときからの念願が叶って、マチュピチュを訪れることが出来た。インカ帝国の都だったクスコの駅頭に群がっていた、ケチュア族の女性の臭いこと、臭いこと、半端ではなかった。幸い観光客には日本製の客車が用意されていたので、臭い思いはせずに済んだ。臭いのは、彼女たちはスカートが古くなると、新しいスカートを古いスカートのうえに重ねてはくからである。その上、頭髪は自分の小水で洗うので、「鼻が曲がるほど臭い」のである。ペルー人口の25%を占める(50年前も現在も)このような原住民はスペイン語を解さなかったため、当時(1970年代)は税金を免除される存在であり、必然的に選挙権もなかった。これは50年昔の話であり、今はこんなことはない。

 

ペルーの日本大使公邸を占拠したテロリストの大部分はこういう、原住民の1920才の若者たちだった。メキシコは100年以上の昔、原住民出身の大統領が誕生している。この一点だけでもペルーはメキシコに100年遅れている。彼らの政府と外国勢力に抗議したい気持ちは分かるが、公邸占拠はどう見ても暴挙以外の何ものでもなかった。(テキサス無宿記)

 

 

 「ペルー日本大使公邸占拠事件(中)」

 1221日(1996年)フジモリは日本大使公邸占拠事件に関して、最初の公式声明を発表した。4分間のTV放映を通じて、大統領は先ず襲撃者を強く非難し、MRTA(トゥパク・アマル革命運動)の大使公邸襲撃は、許すことが出来ない非人道的暴挙であるとした。そして、MRTA所属の犯罪者の釈放を含む、彼らの要求をすべて拒否した。MRTA とはMovimiento Revolucionario Túpac Amaruの頭文字

 一方、武力による人質解放も除外しないが、平和的解決は望むところであり、政府の公式交渉係として、ドミンゴ・パレルモ教育大臣を任命したとも語った。

 

 最後にフジモリは、私の提案は明確である。誘拐犯たちは武装解除を行って、「保証人委員会」に武器を引き渡し、例外なくすべての人質の解放を要求する。

以上が実行されれば、政府は武力の使用は行わず、誘拐犯たちの『出国』を検討することも可能である。以上はペルー国と国際共同体(comunidad internacional)に対する我が政府と私自身の約束である」。

 

このフジモリの声明はMRTAのセルパがペルー政府に属さない人質の解放を段階的に行う、と語った後に発表したものだった。

 

   フジモリへのMRTAの返書

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      写真:(You Tube)

1222日、MRTAは人質のサンドロ・フエンテス元労働大臣に大統領への返事を読み上げさせて次のように返答した。

21日の声明において、アルベルト・フジモリ氏は対決姿勢を保ち、我々に降伏を呼び掛けている。とともに、刑に服している我々の同志は文字通りの刑務所・墓場に隔離されることに忍従し続けろという。これは絶対に受け入れられない。

しかるに我々は、最低限のサービスを制限して、人質に取られた人々の状況を、ますます困難にするペルー政府とは異なる行動を取る。

我々は政府関係者ではない、多数の人々を解放することにする。これはクリスマスを迎えるに際しての我々の人道的な意思表示である。

ただし、政府の閣僚、次官、司法関係者、議員、軍および警察の高官はMRTAの捕虜として公邸に残る。同じく、日本企業の駐在員および各種日本企業関係者も捕虜として公邸に残る。 MRTA19961222日」

この日、反乱者たちは225名の人質を解放した。

 

人質が語る、公邸内の出来事

 

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   写真:(https://www.elpais.com)

 テロリストによる、公邸占拠後、国際赤十字が直ちにペルー政府とテロリスト間の仲介者となった。人質に取られた方々の中には、治安関係の高官たち、現職の国家テロリスト対策本部長官のマキシモ・リべーラと同本部の元長官のカルロス・ドミンゲス及び、国家安全保障局(情報機関)のトップ・ギジェルモ・ボビオも含まれていたが、リベーラとボビオの両人は12日付けでフジモリから解任された。政治家も後年ペルー大統領になる、アレハンドロ・トレードとフランシスコ・サガスティ並びに左翼のハビエル・ディエス上院議員がいた。

 

アレハンドロ・トレードは解放後、次のように語った。

「公邸を占拠したテロリストたちは、リーダー格の二人以外は、数名の女性を含む1820才ほどの若者たちで、『死にたくない』と語っていた。テロリストたちの本音は、彼らの同志たちが政界に進出出来るような『恩赦』を望んでいる。また、武力による人質の救出の企ては危険極まりない。何故なら彼らは爆発物を公邸内の部屋と屋根裏に多数所持しており、対戦車用武器まで所有し、全員が爆発物入りの背嚢を背負っていて、胸につけたひもを引っ張ると、自爆するようになっている」。

 

 人質にされたイエズス会のフアン・フリオ・ウイッチ神父は、解放者名簿に入っていたが、残留を志願して最後まで人質として公邸に残った。なお、残された72名の人質中、日本人は24名であることが分かり、テロリストのリーダーの名前は、ネストル・セルパ・カルトリーニ(43才)と判明した。

 彼らの要求の詳細も伝わってきた。彼らは国中の刑務所に収容されている、同志たち371名の釈放を求めている。彼らはそのうちMRTAの主要メンバーである、ピーター・カルデナス、米国女性ロリ・ベレンソン、セルパの妻の釈放を強く求めていることが分かった。最終的にMRTA371名の釈放を断念し、この3名の釈放のみを要望するに至った。

 

 事件発生の2日後の1219日、早くも日本の池田行彦外務大臣が人質の安全を危惧して、ペルーの首都リマに到着した。

 

平和的解決を目指す

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       写真:(https//www.elcomercioperu.com)

フジモリは人質解放の平和的解決を目指す、日本大使公邸占拠事件対策本部を結成した。

そのメンバーには解放された人質の一人である、駐ペルー・カナダ大使のアンソニー・ヴィンセント、フアン・ルイス・シプリアー二大司教及び国際赤十字の係員が選任され、本部長は教育大臣のドミンゴ・パレルモが就任した。日本政府の代表である、寺田大使は本部の顧問として参加することになった。

同時にペルー政府とMRTAの間を仲介する、「保証人委員会」の設立も意図され、寺田大使はこの委員会にもオブザーバーとして参加を求められた。

 

明けて112日、パレルモはセルパにヴァチカン、赤十字、その他の機関を交えて、事件関係者の安全を見守る、保証人委員会を立ち上げようと提案し、セルパは後日賛成している。

しかし、政府とMRTAとの交渉は委員会発足早々すでに行き詰まっていた。

 

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フジモリはMRTAが収監中の同志の釈放要求を続けるならば、会談を中止する、と通告。一方、警察のヘリコプターが公邸上空を飛行し、装甲車を公邸前に駐車させてMRTAを威嚇した。これに反発したテロリスト達は空中に発砲した。

 

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警官たちがテロリストたちに対し、みだらな侮辱的な仕草をして挑発。これに対し、テロリストたちは警察車両に向け発砲。

この出来事を知った橋本総理はペルー側にもっと慎重になって欲しい、と要望。

 

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    写真:(gettyimages.es)

フジモリ、外国訪問を開始。カナダで橋本総理と、ワシントンでクリントンと、燃料補給を行ったドミニカで同国のフェルナンデス大統領と、それぞれ会談を行った。リーダーたちは異口同音にフジモリ大統領への支持を約束するとともに、この重大な危機に対する対処に賛辞を送った。

 

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フジモリ大統領はロンドンでメイジャー英国首相と会談。フジモリはMRTAのメンバーを乗せる飛行機は準備出来た。身代金は払わないし、収監中のテロリストたちの釈放は交渉の余地はない、と言明した。

ロンドンでフジモリはMRTAメンバーの亡命先になってもらいたいと要望した、とされる。

 

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       写真:(https://www.jijipress.com)

 フジモリ、外国訪問を再開。ドミニカのフェルナンデス大統領と会談後、キューバのカストロを訪問、テロリストたちのキューバへの亡命受入れ方を打診。

 

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セルパはペルー軍の公邸へのトンネル掘削に抗議して、政府との対話の中止を発表。このようにフジモリは当初から和戦両様の構えをとっていた。

 

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高村外務次官が再びペルー訪問。日本政府は事件の平和的解決のための会談の加速を要望する、とフジモリに伝え、3日後ドミニカ国に渡り、MRTAのメンバーの同国への亡命受け入れ方を公式に要請。

 

420

セルパは今後公邸への医師の訪問を週一回土曜のみに制限する、と通告。

 

人質奪還作戦に米軍が参加?とマスコミ 

 19972月、ペルーのラ・レプブリカ紙は「日本大使公邸への武力による人質奪還秘密プランが存在する」との記事を掲載した。作戦には米軍の直接参加もあり得る、としていた。このプランはペルー陸軍情報機関が立案してフジモリに提出したものだと報じていた。

 217日、ニューヨーク・タイムズ紙は、こう書いた。「急襲に際して、米軍の関与が極めて重要である。プランによると、奇襲部隊はペルー陸軍とパナマに本拠地を持つ、米軍南方奇襲部隊の混合部隊となる」。

 

 先にも書いたが、36日、MRTAのセルパは公邸へのトンネル掘削が進んでいる、として政府との会談を中止している。警察と軍は大音響の音楽を掛けたり、タンクを走らせて轟音を立てたりしたが、トンネル掘削はテロリストたちに気づかれていたのだ。

 同じニューヨーク・タイムズ紙は、「保証人委員会」のメンバーであり、釈放された人質の駐ペルー・ヴィンセント・カナダ大使は、「保証人委員会」は公邸急襲準備のための時間稼ぎのために立ち上げたものと考える、と主張したとも報じた。

 

 人質だった、ペルー海軍提督のルイス・ジアンピエトリ(後の副大統領)はミニ通信機を持ち込んでおり、これを使って邸内の情報を奇襲部隊に伝えていた。犯人たちはペルー軍の突入は夜間になると予想し、毎日午後3時から1時間、1階の大広間でリーダーを含む10名がサッカーに興じ、女性隊員たちは見物していることも彼が報告していた。この時間帯、警備は忘れられた。テロリストたちは黒っぽい服装だったため、人質は明るい色の服を着用して、突入の際、奇襲隊員が区別出来るようにしたのもジアンピエトリの案だった。そして、突入10分前に連絡することを要望した。サッカー試合中、人質は2階の部屋に隠れることも打ち合わせていた。

 

 

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 寺田輝介大使の外交回想録の「ペルー日本大使公邸占拠事件」の項に興味深いことが書かれている。21日の橋本総理とフジモリ大統領の会談の際、橋本が「MRTA側が人質に危害を加えないかぎり武力行使はしないというのが、フジモリ大統領の方針である」と述べたのに対して、フジモリ大統領は、「平和的解決に向けて不可欠かつ重要なことは、人質が病気でないことも含め、体のどこにも具合の悪いところがないということである」と語ったとある。(同書281282ページ)

 そして、1997420日、セルパは「人質たちへの医師の訪問を週一回土曜に制限する」と通知した。フジモリはこのセルパの失言を奇貨として、これを公邸突入の大義名分にしたのではないか。二日後のペルー軍による公邸突入は日本側には通知されなかった。(続く)

 

参考資料

Wikipedia: La toma de la residencia del embajador japones en Lima

Peru,una crisis con amplias repercusiones,   Paz Veronica Millet

寺田輝介他編 「竹下外交・ペルー日本大使公邸占拠事件・朝鮮半島問題 (吉田書店)

ウイキペディア:在ペルー日本大使公邸占拠事件


アメリカ便り

   「ペルー日本大使公邸占拠事件」(上)

    (ペルー側の視点)

 

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             写真:(https://www.aniversario.elpais.com/asalto.)         

19961219日付、El Pais紙一面記事(翻訳)

日本大使公邸を占拠した襲撃者たちは、数百人の人質を殺害すると脅迫

 

【蛇足的まえがき】

 アルベルト・フジモリがペルー大統領選に出馬したとき、日本に住んでいた日系3世のペルー女性が「日系人が選挙に出て負けたりすると、ほら見たことかと、批判されるのが落ちだから、出ないで欲しい」と言ったのには驚いた。

古くは、第二次大戦中、ペルー政府が日本移民を排斥したため、多くのペルー日系人は帰国したり、ブラジル等へ再移民して苦労したのである。

 米国の隣国である、メキシコでさえ、日本人、日系人であるが故に、国外追放したりはしなかった。そんなペルーでフジモリは大統領選に勝利して、ペルー大統領として、二期も務めたのである。これだけでも彼が並みの男ではないことが分かる。

 

 フジモリと緊密な連絡を取り合っていた、日本大使公邸占拠事件の日本政府代表の寺田大使が語っているように、「フジモリは他人の意見に耳を傾けるようなタイプではない」ようで、すべてにおいて、自分の意思を押し通す、悪く言えば「ワンマン」タイプのリーダーである。そのような強い個性の持ち主である彼だからこそ、ペルーで大統領にまで上り詰めることが出来た、と言えよう。

 そんなフジモリが遭遇した、最大の試練が、彼の両親の祖国である、日本国の大使公邸が、反政府のゲリラに占拠され、数百人が人質に取られたことだった。いかにして、フジモリがこの大問題を解決したかを、「アメリカ便り」はペルー側の視点からリポートしたい。お付合い頂ければ幸いです。
(テキサス無宿記)

 

   「ペルー日本大使公邸占拠事件」(上)

     ペルー側の視点

 

先月、ペルー憲法裁判所は、2017年に取り消された、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ氏への恩赦を回復することを決断した、とペルーのメディアが報道した。

憲法裁判所は、この決断は人道的見地から行われたものである、と説明している。

これにより、近日中にフジモリ氏は自由の身になることになる、と想定されるが確定したわけではない

 

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      写真:(https://www.opendemocracy.net

1990年から2000年までの10年間、大統領を務めた、日系二世のフジモリ氏は、1984年から国立ラ・モリーナ農科大学の学長を務めていたが、1990年の大統領選に出馬して、後にノーベル文学賞を受賞する、マリオ・バルガス・リヨサ氏を破って大統領に就任したのである。

 

元大統領は2009年、反政府武装グループ・センデ―ロ・ルミノーソのゲリラと混同して、無実の住人15名を殺害したとの罪で25年の刑に服していた。だが、一時、健康上の理由で、恩赦になっていたが、それがくつがえされて、ふたたび収監されていた。そして、今回この件が再再度恩赦の対象になったのである。

 

天皇誕生日レセプション中の暴挙
 

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  写真:https://www.rpp.pe)

この記事を読んで、私は19961217日に起こった、もう一つの反政府武装グループのMRTA(トゥパク・アマル革命運動)による、ペルー日本大使公邸占拠事件を思い出した。当日大使公邸では天皇誕生日(現上皇様)のレセプションが開催され、600名ほどの招待客が参加していたが、14名のゲリラたちによって招待客全員が人質にされた。

反政府武装グループの暗躍はフジモリ政権の前から、ペルー社会のガンだったのである。そして、武装グループの撃滅を公約の一つにしていたのがフジモリだった。

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     写真:(https://www.peru21/cultura/rehenes/

日系二世のフジモリ(以下敬称は略させていただく)のペルー大統領選出は、わが国民を歓喜させる大ニュースとなった。19961217日、そのフジモリ政府の首都リマの日本大使公邸占拠事件は、ペルーでは映画、米国ではオペラまで公開されるほどセンセーショナルな事件だった。そこで、「アメリカ便り」は一刻も早いフジモリ元大統領の出所を、祈念して事件を振り返って見ることにした。

 

ペルー日本大使公邸占拠事件に関する、日本語による出版物は、私の知る限り15冊あるが、このリポートはペルーにおいてスペイン語で書かれた、ペルー側の視点から事件を追ったものである。大筋において日本人とペルー人の記録に差はないが、二、三日本側が書いていない事実もある点が興味深い。

なお、この事件で日本政府の代表として大活躍したのは、当時メキシコ大使だった、寺田輝介だった。

私は50年前、駐メキシコ日本大使館の二等書記官だった、若き日の寺田大使と毎週末共にテニスをプレイした仲だったため、この事件を特に強い関心を持って見守っていたのだった。

 

 ペルー日本大使公邸占拠事件は19961217日、ペルーの首都リマ市のサン・イシドロで午後8時半発生した。ゲリラ組織MRTAテュパック・アマル革命運動)所属の重武装した14名のゲリラが隣接した空家から、塀と公邸の壁を爆破して大使公邸に突入、青木日本大使が主催した、明仁天皇誕生日祝賀会に参列していた、600名を人質に取った。

 

 人質にされた600名の大部分は遠からずして段階的に釈放された。ただし、フジモリ大統領の母堂を含む女性と高齢者90名はその夜、釈放された。幸いなことに襲撃者たちは、大統領の母堂のいたことに気付いていなかった。

 

    126日間の占拠と人質救出作戦
 

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      写真:(https://www.gestion.pe)

 この日から126日後の翌年の1997422日に最後まで囚われの身となっていた、71名は、ペルー陸軍の特殊部隊チャビン・デ・ワンタールによって救出された。救出作戦において、人質1名、特殊部隊員2名が犠牲になった。また、占拠に関わった14名のMRTAゲリラは全員死亡した。この救出作戦は大成功と称えられ、世界的ニュースとなった。

 

なお、チャビン・デ・ワンタールとはペルー中部の世界遺産であり、フジモリはこの地下に張り巡らされたトンネルから、公邸へのトンネル掘削を思いついたことから、この救出部隊にこの遺跡名が付けられた。

 当初、当時の大統領アルベルト・フジモリは71名の人質の命を救ったとして、賞賛されたが、間もなく数名のMRTAゲリラは捕虜になった後、即刻処刑された、との情報が出回ったため、犠牲者の家族から軍関係者が起訴され、ペルー検察庁が調査を命じた。だが、2015年、米州人権裁判所は、「即刻処刑」であったとの確証は得られなかった、と結論づけた。

 

 天皇誕生日のレセプション当夜、大使公邸は300名以上の警官及び政府高官、各国大使等の武装ボディーガードたちが警備にあたっていた。公邸の周囲は3.5㍍の塀があり、建物のすべての窓は鉄格子が備わり、窓ガラスは防弾ガラスだった。入口のドアは手りゅう弾にも耐える強固なものだった。従って、公邸は外部からの襲撃に耐え得る建造物だった。だが、ゲリラは塀を爆破して侵入してきた後、公邸の建物も爆薬によって侵入口を作った。

 

日本大使公邸占拠事件発生を受け、リマの株式市場は大暴落に見舞われた。

ペルー国民の気持ちは、ペルー最大の新聞の社説が上手く要約している。「ペルーは少なくとも4年後退した。ペルーはフジモリ政権下、平和になったが、今再び恐怖に晒される国に戻ってしまった」。

フジモリの支持率は事件前の75%から40%に下落したことから分かるように、フジモリは反政府テロ活動を阻止して、国民に平和をもたらしていたのだ。

 

   襲撃グループMRTAの声明と要求

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   写真:(https.//marxistas.internet.com)

事件発生の数時間後、大使公邸を占拠したMRTA(テュパック・アマル革命運動)は次のような声明を発表した。

「我々はこの軍事占拠を日本政府の我が祖国の政治への介入に抗議するために行ったものである。祖国の政治、即ちフジモリ政権は常常人権無視の手法で政治を行い、特に経済政策は大部分のペルー国民に極貧と空腹をもたらすだけのものである。MRTA 19961217日」。

 

同時にテロリストは彼らの要求を政府が認めれば人質の生命は保証する、として以下の4か条の要求を提示した。

1.    大部分の国民の幸福を目指すモデルに経済政策を変更することを約束すること。

2.    MRTAに所属するすべての受刑者及び我々の組織に所属するとして告発された仲間の釈放。

3.    大使公邸を占拠した攻撃部隊員とすべてのMRTA所属の受刑者のペルー内陸の密林地帯への移動。また、保証人として、適切に選考された人質(複数)が我々と同行すること。人質は我々の無事ゲリラ行動地区に到着後解放するものとする。

4.    戦争税の支払。

 

  MRTAはいかなる時でも、対話を重視する組織だった。だが、我々は常に政府側の拒絶と嘲笑を受けるだけだった。本日、我々は固い決心を持って、この場に臨んでいる。我々が人質に取っている、重要人物たちの生命が危険にさらされる軍事行動を政府が取った場合、その責任はすべて政府にある。

もし、政府が我々の要求を受け入れない場合に、我々が実行に移さざるを得なくなる、いかなる行動もこれまた政府の責任である。

MRTA 19961217

 

 以上のMRTAの声明と4か条の要求に対し、フジモリが公式の声明を発表したのは、1221日の4分間のTV放映によってであった。

テロリストの要求へのフジモリの反応と声明は次回、お伝えすることにしたい。(続く)

 

参考資料:

Wikipedia: La toma de la residencia del embajador japones en Lima

Peru,una crisis con amplias repercusiones,   Paz Veronica Millet

寺田輝介他編 「竹下外交・ペルー日本大使公邸占拠事件・朝鮮半島問題 (吉田書店)

ウイキペディア:在ペルー日本大使公邸占拠事件


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ホンジュラス前大統領、麻薬取引容疑で逮捕

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                      写真:(https://www.bbc.com)

今年の127日までホンジュラスの大統領だった、フアン・オルランド・エルナンデス(53才)はサンバレンタインデーの2月14日、米国政府から麻薬取引に関する犯罪行為によって身柄引渡しを要求された。その夜、ホンジュラスの国家警察は首都テグシガルパ市の高級住宅地の前大統領の自宅近辺に警官隊を配置した。

 翌朝、安全保障省大臣のラモン・サビヨン指揮の警官隊によって逮捕された、エルナンデスは自宅から鎖付き手錠と足かせを付けられて警察本部へ連行された。

エルナンデスの逮捕はホンジュラスの国家警察と米国麻薬取締局(DEA)との共同作戦で実施された。

 216日、エルナンデスは裁判所で彼の罪名告知と次回の口頭弁論の期日が316日に決定したと告げられた。

ホンジュラス人が米国を目指す理由
 

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         写真:(https://www.usatoday.com/story)

 任期が終わって一ヶ月にもならない前大統領の手錠、足かせ姿の写真は衝撃的だった。読者諸氏は3年前の201811月、1万人を超える、中米移民キャラバンがメキシコ国を縦断して米国国境を目指して、米墨国境を大混乱に陥れたことをご記憶だろう。その大部分を占めたのが、ホンジュラス人だった。人口900万の世界の最貧国の一つである、ホンジュラス人が幼子を乳母車に乗せて参加した母親たちを含むキャラバンが3000㌔を歩いて、米国への亡命を求めたのである。

 

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   写真:(https:www.wsj.com)

 彼らが米国を目指す理由は貧困にもよるが、多くのケースは麻薬犯罪組織による、殺人、暴力と脅迫からの逃避が主因であることが一大特徴である。

WHOによると、人口10万人あたりの殺人件数No.1はホンジュラスで103.9件、2位のベネズエラは半分の57.6件である。

私は米国のTVで彼らのインタービューを見たが、自国で生きて行くためには、男は麻薬組織の下部組織に入るか、女性は売春婦になるしかないのです、と一少女が涙ながらに証言していた。

もう一つのホンジュラスの移民キャラバンの異常さは、女性が全キャラバンの58%を占めていることである。この国の殺人被害者は女性が男性より多いのだ。

こんなホンジュラスの麻薬、犯罪組織を牛耳っていたのが、エルナンデス前大統領だったのである。そして、移民キャラバンはエルナンデスによる、強権、恐怖、汚職政治への反感が「移民送出圧力」の原動力になっている。

 

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   写真:(www.radioprogreso.com)

  ホンジュラスは汚職まみれの後進国、世界の最貧国の一つだが、大統領選に関しては、米国並みに政党員による、公認候補の選出が行われる。同国は1865年制定の憲法によって、大統領の再選は認められているが、二期連続の立候補は禁じられている。だが、フアン・オルランドは2018年の二期目の大統領選挑戦に際し、国民党員の92.56%から再選への立候補を承認され、本選挙では僅差で当選を果たした。選挙後、これは大不正選挙だったとの批判が沸騰した。

 

米国のブラックリストに載った前大統領

選挙の度に再選を可能にするためにばら撒いた金は、麻薬取引で得た資金だった。エルナンデスと通信省大臣だった、彼の姉イルダ(ヘリコプター事故死)は、早くも弟の大統領就任の1年後の2015年には、米国連邦検察庁から麻薬取引及び資金洗浄行為の黒幕としてブラックリストに記載された。だが、この事実は20195月に初めて同検察庁からホンジュラス政府に通知された。

 

 そして、201910月、いよいよ米国において、彼の弟のトニーの麻薬密売容疑による裁判が始まった。起訴状には、フアン・オルランド・エルナンデス大統領はトニーの仲介によって、メキシコ麻薬組織の巨悪中の巨悪である、ホアキン・チャポ・グスマンから100万ドルを受け取った、と記載されていた。

この事実を知ると、エルナンデスはTwitterを通じて事実無根である、と抗議した。

しかし、検察側の証人(ホンジュラスの政治家・アミカール・ソリアーノ)は、チャポがトニーに100万ドル渡した現場にいたこと、この資金はエルナンデスが国会議員に再選するための選挙資金だったことも証言した。他にもエルナンデスはチャポに度々金を無心していた事実も明らかになった。

チャポはメキシコで3回投獄され、三回脱獄した凶悪な知能犯だが、現在は終身刑を宣告されて、米国内の刑務所で服役している。彼の三度目の脱獄は、1.5㌔に及ぶトンネルを建設し、トロッコまで敷設していた。

なお、ホンジュラスの麻薬組織はコカイン製造に特化し、米国市場への密輸はチャポのグループ(彼らの隠語ではカルテルという)が担当する、分業制を取っている。

前大統領のキャリア
 

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    写真:(www.inter-americandialogue.com)

 ではここでフアン・オルランド・エルナンデスはどういう人物なのかを見てみよう。

フアン・オルランドは17兄弟姉妹の15番目である。17人も子供を作った両親は裕福だった上に、敬虔なカトリック信者だったに違いない。フアン・オルランドも同じく敬虔なカトリック信者であり、ラテンアメリカの政治家としては珍しく政治信条は超が付くほどの極右かつ反共である。

フアンはホンジュラス国立自治大学の法学部を卒業して1990年弁護士資格を得た。大学時代、法学部の学生会長を務めた。最初の仕事はフランシスコ・モラサン市裁判所の書記だった。1990年、国会議員となった兄のマルコの秘書に任命されたことで、保守政党のホンジュラス国民党の議員たちと知り合う機会を得た。

その後、奨学金を得て、スペインへ留学して政治学を学んだ。

 

1994年、今度はニューヨーク市立大学へ1年間留学した。1997年、国会議員に初当選した。フアンは議員を4期務めた後、2010年、42才の若さで国会議長に選出された。

2013年、彼はホンジュラス国民党から一期目の大統領選に出馬し、めでたく当選した。彼は選挙運動に際して、彼と彼の兄弟が稼ぐ麻薬資金をふんだんにばら撒いて票を買ったと批判されたが、いみじくも今回の逮捕で、フアン・オルランドが同国の麻薬取引のボスだったことが明らかになった。

  キューバをにらむ不沈空母

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       写真:(https://www.fruitnet.com)

  ホンジュラスの主要産業である、バナナの栽培と輸出は19世紀にユナイテッド・フルーツ・カンパニー等によって運営された。だが、7000人の死者を出した、1998年の台風ミッチによってバナナ産業は壊滅的被害を受け、未だに昔の勢いは取り戻していない。現在、輸出産業の1位はコーヒーである。とにかく、ホンジュラスは米国の影響が強すぎるのである。

何よりの証拠は、ホンジュラスがカリブ海に浮かぶキューバの真向かいにあるという、戦略的価値からもあるが、米軍空軍基地が存在することである。キューバをにらむ“不沈航空母艦”とよばれており、常時1500名の米兵が駐在している。中米諸国は左翼政権が多いため、米国にとってホンジュラスのこのソト・カノ基地は貴重な存在といえる。

新大統領のシオマラ・カストロ


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   写真:(https://www.multipolarista.com)

さて、エルナンデスの任期満了を受けて、127日にホンジュラス大統領に就任した、シオマラ・カストロ氏はかつて同国のファースト・レディーだったが、大統領だった夫のセライヤ氏は2012年の政争(クーデターといわれる)によって政権を追われた。その後、シオラマは夫の意思を次いで、左翼政党の「自由と復興党」から大統領選に挑戦し、今回ようやく全野党勢力の支援を受けて、三度目の正直で大統領の座を勝ち取った。文字通り執念の勝利だった。

 

なお、ホンジュラスは台湾を承認する14ヶ国の一つだが、左翼のシオマラ・カストロ新大統領は台湾承認の継続を確約した。

女性大統領の登場によって、ホンジュラスがどう変わるかが見ものだが、国民、中でも女性たちの安全、安心が保障される国に変貌して欲しいものだ。(終わり)

 

参考資料Wikipedia: Juan Orland Hernandez

          Britannica: Honduras

 


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